にせ柿騒動:『赤道祭』 [アート]
日本の焼物に関心のある方なら柿右衛門を知らない人はいないでしょう。
当代は十五代ですが、濁手を復活させた十二代さんの頃、表題の騒動が起こりました。
騒動のことや火野葦平の『赤道祭』が発端であることは知っていても実際にその小説を読んだことがある方は少ないのではないでしょうか?
私も読んだことがなかったので古本を買ってみました。
内容に触れる前に十二代さんの時代に設立された「小畑柿右衛門」について触れなければなりません。
1919年(大正8年)に実業家小畑秀吉の出資を受け、十二代さんが共同経営者となって設立されたのが「柿右衛門焼合資会社」(通称「小畑柿右衛門」)です。
十二代さんはこの時当時商標登録していた「角福」の銘(窯印)の使用権を出資金(の代わり)とします。
十二代さんは考えの違いから1928年(昭和3年)に脱退しますが、会社は1969年(昭和44年)まで存続し、それまでは「角福」の銘を小畑柿右衛門が使用します。
十二代さんは窯印として「柿右衛門作」を使用します。
当時は会社の存続期間(この会社は50年)を登記しました。
その期間が終了した時会社は解散し、「角福」の使用権は十二代さんに返還されますが、十二代さんはそれを使用することはありませんでした。
会社は解散しましたが、窯は「仁和窯」と改称して事業は続けられました。
会社設立に伴って十二代さんだけでなく職人さんもその会社で仕事をしたでしょうから「柿右衛門」と名乗ることに不都合はないわけです。
さて以上のことを踏まえて問題の箇所を見てみましょう。
P.198 下段二行目
....歌をつくったりする第三郎は、旅に出ても趣味を忘れぬように、柿右衛門の茶碗などを持ちこんできていた。
「僕のも柿右衛門ですよ」
柳河出身の大平幸二も、有田の焼物を愛用しているのであろう。
「どれ、見せてごらん」第三郎は手に取って、茶碗の裏底をしらべ、「これはニセ柿だ」と、笑った。
「そんなことはないですよ。ちゃんと、有田の町で、柿右衛門窯元に行って買うて来たとですけん」
「それがニセなんだよ。ほんとうの十二代柿右衛門のは、・・・・ほら、柿右衛門作、と書いてある、これなんだよ。君のこの四角に福のマークは、昔からの柿右衛門の銘だが、いまはちがう。柿右衛門のいない窯元が昔の角福を使っているだけだ」
この「ニセなんだよ」という箇所が問題となり、訴訟が起こされます。
裁判はのちに和解することになりますが、当時は多分大きな関心を集めたことでしょう。
昭和26年11月10日に初版第1刷が発行されました。
著者の検印が今では珍しいですね。
こういう作家たちが活躍していた時代です。
今現在東京オリンピックのエンブレムが問題になって訴訟が提起されています。
当時は訴訟を起こすのも起こされるのも今とは重大さが違うのだろうなあと想像します。
明日は母の通院の日なので朝の更新はお休みします。
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