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千葉駅(モノレール)にグランドピアノを [地域]

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しばらく前のニュースなのですが、今日ポスターを見ました。



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駅や商店街などに自由に弾けるピアノが置かれることは珍しくなくなりましたが、千葉都市モノレールの千葉駅にも置こうというプロジェクトがあるそうです。

他と違うのは置かれるのがグランドピアノであるとくことでしょうか。

私が知らないだけで既にどこかにあるかもしれませんが。



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他にもいろいろ計画があるようです。

このポスターだけではプロジェクトの内容がいまいちよくわかりませんが、新しい積極的な動きがああるというのはいいことですね。


期待しましょう。


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千葉県文化会館は改装 [地域]

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中学生の頃から吹奏楽コンクールで親しんだ千葉県文化会館ですが、4月から2年以上かけて改装される予定です。



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築50年なのだそうで、天井を始めとした内外装の他、トイレ、屋根の防水関係、バリアフリーへの対応、カフェの新設などかなり大掛かりです。



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中学生の頃は文字通りこれを見上げて圧倒される思いでした。

当時は青葉の森ももちろんありません。



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道の向こうから子供達の声が聞こえました。

幼稚園か保育所でしょうか、元気いっぱいです。

某県では子供達の声が漆後して公園が廃止されることになって物議を醸しています。



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お寺がありますね。

お寺が経営しているのかもしれません。



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この右手に通称千葉城、本来は猪鼻城の郷土史博物館があります。



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リニューアルの前の月、パユの参加するアンサンブルの公演があります。

プーランクの六重奏などが予定されています。

最初に来日公演を行ったのが 2002年なのだそうで、もうそんなに経つのかと驚きます。



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ロビー中央の像を毎回見上げていました。



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大ホールの入口。



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小ホール。



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中学生の頃はこれはなかったようです。

ずっとあったように記憶してしまっています。


六回のコンクールそれぞれに思い出があります。

三回目の中学最後のコンクールのことを今でも思い出します。

当時は今のような高度な演奏は聴かれなかったですね。

三年生の時は大きな声で自慢できるような成績ではありませんでしたが、それでも私の中学校としてはそれまでで一番良い成績でした。

当時の顧問の先生はもう何年も前にお亡くなりになってしまいました。

厳しい先生でした。怒られたのも思い出です。


部員たちの間でもいろいろありました。

あれはそういうことだったのかと、何年も経ってからようやくわかったこともありました。

自分は本当に子供だったなと思います。


半世紀経つのですね。

私も歳をとるはずです。



明日は母の通院の日なので朝の更新はお休みします。


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見上げる千葉都市モノレール [地域]

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先日の撮影ですが、動くものを撮るのは慣れが必要ですね。

こういうのは絞り込んで置きピンで撮るのがいいのかもしれません。



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よく知られていますが、懸垂型のモノレールは珍しく、千葉都市モノレールは数少ない懸垂型モノレールで営業距離(15.2km)世界一らしいです。


以前はよく利用していました。


千葉そごうと隣接するセンシティビルの間を縫うように走っています。

この右手に駅があります。



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千葉そごう 4F からモノレールの駅につながっていますが、人が歩く頭の上をモノレールが走ります。



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固定資産を売却して債務を軽減したのですが、営業収入は劇的に伸びることは期待できないようです。

ある時期までは延伸計画もあったのですが、もうそれは期待できません。


駅は「千城台」−「千城台北」−「桜木」−「都賀」−「動物公園」−「スポーツセンター」−「穴川」−「作草部」−「千葉公園」−「千葉」−「市役所前」−「千葉みなと

という具合に続いていて「穴川」−「作草部」の間でほぼ直角に曲がって方向を変えます。

県庁方面へは「千葉」から別のルートになります。


「穴川」から JR稲毛、そしてその先幕張新都心方面に行ければ利用者が伸びたのにという意見がよく聞かれるのですが、この先新しいルートができることは期待できません。


レールを支える支柱は大部分が道路の真ん中に立てられているので用地買収の負担も比較的少なく抑えられていたはずですが、それでも少ない金額ではありません。


当初の計画では大きな団地がある大宮台から千城台に至る計画があったそうですが、反対が多くて実現しなかったと聞いています。

そこに住む人たちによっては公共交通機関はバスしかないので、できてほしいと望む人も多かったはずなのですが。


と、わかっったようなことを言っていますが、私の住む地域では子供の頃通学に使っていたバスは廃線になってしまって、頼りはコミュニティバスです。


なのでどうしても車を使わなければなりません。


何やら走行距離に応じた課税というものが検討されているようですが、勘弁して欲しいです。

JAF も異例の反対意見の表明を行ったようです。

政権交代した時のガソリンに対する課税の変更のすったもんだはまだ記憶にあります。


次に車を買い替えるときは PHV かなあとぼんやり考えています。

もう新型 PRIUS の様子がちらほら報じられています。

2L のエンジンを積むとか積まないとか。

2L と 1.8L の二種類になるとか。


燃費がさらに良くなるならいいですが。

ともあれまだ5年くらいは乗るつもりなので買い替えるとしてもその次の世代でしょうね。
 
 
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セルフポートレートが撮れるスタジオや女性に嬉しいコーナー:ビックカメラ [地域]


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今日も所用があって千葉駅周辺に出たの立ち寄ってみました。



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ネットのニュースでセルフで写真が撮れるコナーがあるとあったのでどんなものかと思い覗いてみました。

利用中だったのでじっくりと見ることはできませんでしたが、ポートレート用の設備のようです。


デジタルカメラ(SONY らしい)が三脚に据えられ、ライティングもセットされて自分でポートレートが撮れるとのことです。

ブツ撮りにも使えるかと思いましたが、ポートレート専用のようです。


家族写真とか、コスプレとか、友達と撮るとか。


撮った写真はスマートフォンに転送して持ち帰る仕組みです。


基本料金は三千円弱で、延長も可(要追加料金)とのことです。



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女性写真の意見を取り入れた内容もあるとネットのニュースにありました。



最新のコスメと美容家電が試せる「ビューティー商品お試しドレッサー」や、美容家電を試しながら身だしなみを整えられる「女性専用パウダールーム」はビックカメラで初の試み


 大きな鏡の前に座るタイプのドレッサーでは、化粧品と一緒にスチーマーや美顔器、ヘアドライヤなどが試せる。しかも、ボタンを押すと蛇口から水が流れて手が洗える。ルージュやファンデーションのサンプルの色合いを手の甲で試した後、洗えるようにするための配慮だ。「美容家電売り場で手が洗えるように水道栓を引いたのはビックカメラで初めて」


 ビックカメラの会員(ビックポイントカード・ビックカメラアプリ)限定ではあるが、最新のビューティー家電を借りながらパウダールーム内でヘアスタイルや化粧、身だしなみを整えることができる。ヘアスプレーなどを持ち合わせてない場合、レジカウンターで無料貸し出しもしている。


とのことです。


意欲的ですね。


まだ買いたいものはないのでひとまず様子見です。


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変わる千葉市役所周辺 [地域]

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千葉市役所前の国道357号はもうずいぶん前から地下化の工事が行われていました。

最近のネットのニュースで千葉市役所の建て替えが報じられていたのですが、国道の工事も完了したようです。

練習場所に次のようなリーフレットがあったので行ってみました。



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この広いスペースまで国道でした。



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千葉市役所に隣接する千葉銀行本店も建て替えが進んでいて、国道から見て奥に移転して、古い建物はもう取り壊されていました。



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「公共交通」でなくて公共の交通機関でしょう。



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千葉都市モノレールの市役所前駅につながる歩道橋の上から撮っています。

奥が東京方面、手前が木更津方面です。


芝は人工芝のようで施行中でした。

左の緑の部分から右の道路までが全て道路でした。

自転車専用道路が広くとられています。



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左端が市役所の新しい建物、その右が古い建物です。

右1/3くらいのところにあるのが千葉銀行の本店です。



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国道を跨ぐ歩道橋です。

左は千葉中央コミュニティセンターで、かつてYAMAHAがありました。

ほぼ中央に見えるのがモノレールの市役所前駅、右が市役所です。



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地上に降りました。



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道路側から市役所を見ます。

手前は千葉市議会の建物です。



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左が千葉市議会、その隣が千葉銀行です。



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千葉市役所の新しい建物です。

右はモノレールの駅からつながる通路です。



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反対側から木更津方面を見たところです。

来月三日からイヴェントのようですが、まだ準備中のようです。



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さらに北に移動します。

右の方に見えるのが千葉中央コミュニティセンター、中央に見えるのが歩道橋です。



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ほぼ同じ場所から東を見たところですが、かつてはここに歩道橋がありました。

狭くて古かったので取り壊されたようです。



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すぐ北側に交差点があります。



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横断中に撮ります。



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渡り切って市役所方面を見たところです。

市議会の建物と市役所の旧庁舎、コミュニティセンターが見えます。



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引いて撮ると千葉銀行本店が入ります。



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市役所前の欅がきれいに色づいていました。



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空が青くて雲が少なくて撮影日和です。



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明日は少し気温が低くなって雨もあるかもという予報です。

過ごしやすい日が続いて欲しいです。


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変わる千葉駅前 [地域]

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ネットでも何度も取り上げられていますが、千葉駅の真正面の再開発ビルの一階にビックカメラが入店して来月一日にオープンします。



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今日前を通りますともうポイントカーdの申し込みなどを受け付けていました。



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反対側から見ます。



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ビックカメラは一階だけのようです。



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左が千葉駅です。



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人の流れは変わるでしょうか?



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喫茶店のルノワールは千葉初出店とのことです。



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ビックカメラは別会社でお酒やおもちゃを扱っているようです。



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飲食店が思ったより多いなという印象です。



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この通りは少しうらぶれた感じがあったのですが、変わるでしょうか?



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ルノワールの本店は中野で、確か向いにフジヤカメラがあったと思います。

今もあるのかどうかわかりませんが、「いもはうす」というライブハウスがありました。

ずいぶん昔ですがジム・ホールの演奏を聴きました。



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新しいビルは三つに分かれているようです。



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二つのA館は三越の本館と新歓のように空中で繋がっています。



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ルノワールは一月くらいモーニング無料(詳細不明)、ビックカメラは全額ポイント還元などのセールを行うようです。


賑やかになるといいですね。


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金光院 [地域]

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千葉市若葉区にあるお寺、金光院(こんこういん)です。


家康がここで休憩したという記録が残っています。



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本堂から見て左方向です。



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本堂の前には以前訪れた福星寺と同じように老木の桜があります。



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こちらは入口側から見たところです。



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左を見上げると立派なお堂があります。



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堂々としてとても立派です。



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本堂を前に見るとその左にお墓に通じる道があります。



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左を見るとお地蔵さんが並んでいます。



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歩みを進めて左を見上げます。



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紅葉の時期はきれいでしょうね。



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お墓が向こうに見えます。



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このお寺の縁起です。


千葉氏の姻戚、原氏(小弓城主)がこの土地を寄進したとあります。

家康が滞泊したという記録が残っているそうです。

什宝、古文書、曼荼羅、衣服などが残されているそうです。



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これ以外は見ることはできません。



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墓地を背にしたお堂です。



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本堂と桜です。



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福星寺(四街道市)のしだれ桜はここのものを株分けしたものだそうですが、元の桜は枯れてしまったそうです。



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これはしだれ桜ではないようですね。



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お堂の前から本堂を望みます。



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根から生えたと思われる幹がありますが、朽ちかけているようです。



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桜の時期と紅葉の時期にまた行ってみましょう。



明日は休日ですが朝の更新は行いません。


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千葉城 ≠ 猪鼻城 [地域]

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先日家康が当初東金へ鷹狩りに出かけたとき立ち寄ったのは現在の千葉市中央区にあったとされる「御殿」であって、千葉市若葉区にある「御茶屋御殿」ではないという説を取り上げました。

それに加えて当時は「御茶屋御殿」があったのは千葉町に含まれなかったはずだと述べました。


その論文の著者である簗瀬裕一氏が同じ「千葉いまむかし」の No.13 に「御殿」に着いて述べられています。



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千葉いまむかし No.13
 千葉市教育委員会(千葉市立郷土博物館 市史編纂担当)
 平成一二年三月三一日発行
 中世の千葉 ─千葉堀内の景観について─
  簗瀬裕一
P1
はじめに
 千葉氏が千葉に本拠をおいた頃、その館を中心とした場所は「堀内」と呼ばれていた。しかし、その実体は不明な部分が多い。
(中略)さらに、本稿の重要な主題でもある千葉城(千葉氏の館)の位置については、『抜粋』(管理者補記。『千学集抜粋』)の当該部分には、なにも記述が無いにもかかわらず、猪鼻城跡に比定されている。この他の部分も含め、これらの復元図には問題点が多いのであるが、こうした図により千葉氏の館の所在地を、猪鼻城跡とする考え方が既に一般に普及しているのが実状であろう。城郭史研究の成果からは、千葉氏が千葉にいた時代は、猪鼻のような台地上ではなく、現在町並が広がる低地部分に館があったとみるべきなのであるが、このような研究者の声は一般には届いていないし、これまでまったく検証的作業もなされてこなかったのである。こうした点は、既に十年以上も前に柴田龍司氏により指摘されていることでもあるが、『抜粋』の記述による「城下町」のイメージは、いまもなお根強いものがある。
 筆者も本誌11号に掲載した小論(以下前稿とする)や『千葉県の歴史』史料編1において、千葉城跡について論じる機会があったが、それらの小論においても猪鼻城跡=千葉城として述べた経緯があり、誤った中世の千葉の理解を助長する一翼を担ってしまったことは否定できない。
(後略)
P7
II  千葉館の所在地をめぐって
 康正元年(享徳四年七月改元)(一四五五)に千葉宗家が滅ぶまで本拠とした千葉城といえば、猪鼻城跡を考える人が多いであろう。しかし、果たして猪鼻城跡=千葉氏の館跡であろうか。まず、この問題から始めたい。
 1  千葉城
(中略)
P8
 信頼できる史料における「千葉城」の初出は、『相馬文書』にみえるものである。建武二年、千田胤貞と千葉介貞胤による一族内紛の時、千葉が合戦の場となった。これに関して同文書には「千葉城」・「千葉楯」が攻撃されたとある。『吾妻鏡』にみられる「城」・「城郭」を検討した中澤克昭氏は、鎌倉期の城郭について二種類に大別できるとしている。そのひとつは、日常生活の本拠地から「引籠」るタイプで、堀や城壁を築いて新たに構えられることが多いという。このタイプに衣笠城や金砂城があげられている。これに対しもうひとつ、日常的に居住している住宅や居館が、戦いに臨み城となったものがあるという。千葉城について考えてみると、先に述べたように『相馬文書』には「千葉城」と「千葉楯」のふたつがみえ、これは内容からも同じものをさしていることが明らかである。中澤氏の言うようにまさに千葉館(楯)が戦いの時に、城郭化されて千葉城となったことを意味しているものと考えるべきであろう。
 しかしながら「千葉城」は、一級史料ではこの『相馬文書』の例が唯一のものなのである。ほぼ同じ頃の、『金沢文庫文書』には、「堀内禅室」や「堀内光明院」(識語編八七三・八七四)といった記述がみられ、時代は下がるが(十六世紀)、『抜粋』にも「堀内北斗山金剛授寺」・「堀内牛頭天皇」といった表現がみられ、千葉氏の館を中心とした場所については、一般的には「堀内」と呼ばれていたとみられるのである。他に「千葉の城」・「千葉城」は、十六世紀後半成立の『鎌倉大草紙』(『群書類従』)にもみられる。これは享徳の大乱のなかで、千葉氏も鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏の争いに巻き込まれ、千葉を舞台として千葉宗家が滅亡する戦いと、その後の両派の対立のなかに千葉城があらわれるものである。このように、『相馬文書』と『鎌倉大草紙』にみえる「千葉城」は、いずれも戦時のものであるので、館が一時的に城となったか、城郭構えの館であったものであろう。千葉宗家が滅ぶまでの史料全般の中に、千葉城がほとんあらわれないのは、千葉氏の館が通常は城の範疇に入らないものだったことによると考えられる。したがって、猪鼻城跡を建武二年の『相馬文書』の「千葉城」や『鎌倉大草紙』享徳四年の「千葉の城」にあてる必要はなく、以下で述べるように、千葉館は猪鼻城跡ではなく、「御殿跡」とされる千葉地方裁判所のある地点と考えているので、そこにあった館が、いくさに臨み城となったものとみるべきであろう。
P14
 5  いのはな
 千葉館が他にあり、猪鼻城が戦国期の城跡であったとすると、この城は誰が築いたのかということが問題となってこよう。「いのはな」は、中世の史料においてほとんど見いだすことは出来ないが、『抜粋』には、妙見宮座主範覚〔永正十年(一五一三)〜天文十二年(一五四三)〕に関してしてわずかにみえる。「一条院薄墨の御証文は、範覚の世に井の鼻を持れし時、永正十三年丙子八月廿三日、三上但馬守二千余騎にて押寄て打落す、此時薄墨の御証文は宝器ともみな失にける」とあり、範覚が猪鼻に拠ったことが推定され、「範覚の代軍役なされし」「範覚軍に出給ひ」ともみえるから、範覚の時に戦があり従軍したことも推定できる。猪鼻で戦いがあったことは、『本土寺過去帳』(『千葉縣史料』中世篇 本土寺過去帳)によっても確かめられる。「原蔵人丞殿法名郎寿 東六郎殿証仏果 永世三丙子八月 千葉井花ニテ打死諸人同」とあり、年号と干支が一致しないが、『抜粋』と八月というのが共通するので、永正十三年丙子が正しいものと考えられる。(後略)
P16
   6. 千葉館の所在地
 それではどこに千葉氏の館があったのかというと、その手がかりとなるものは少ない。『抜粋』では、妙見尊を「堀内」から移したと何度も書かれており(金剛授寺の項参照)、その感じからすると、千葉館の所在地は現在の千葉神社の位置からそう遠くではなさそうである。前項で引用した『甲寅紀行』には、「妙見寺の東に、千葉屋敷あり」とある。妙見寺(現千葉神社)の東にはそれらしい場所はなく、以下に述べるように千葉館に相当するのではないかという場所が、現裁判所のところにあるので、東と南の方角を誤ったものと考えたい。
 千葉の歴史に詳しかった故和田茂右衛門氏の『社寺よりみた千葉の歴史』(以下『社寺』)によれば、千葉地方裁判所の地は「御殿跡」と呼ばれており、これが千葉氏の館の跡ではないかとしている。野口実氏も猪鼻城跡と千葉城につてふれて、猪鼻城跡は『相馬文書』にみえる建武二年千田胤貞方が千葉介貞胤の本拠千葉楯を攻めた頃築かれたとし、千葉氏の館は地方裁判所のある「御殿跡」が守護の館をおくのにふさわしいとしている。小高春雄氏は、前述のように猪鼻城跡と千葉城を別ものと考えており、千葉城は城郭構えの館で、本町二〜三丁目あたりの市街地の下に埋もれていると推定している。外山信司氏も地点は特定していないが、千葉市街地の立地する微高地上に館があったとしている。
 裁判所の地が御殿跡と呼ばれていたことは確かで、近世の千葉町の絵図にも、「御殿前」・「御殿地入口」の記載がある。(第13図)。『千葉縣千葉郡誌』(六二六頁)には、千葉地方裁判所について、「此地御殿趾の称あり、蓋し千葉氏に夤縁あるものの如きも今考證にたるものなきを遺憾とす」とあり、大正時代にも御殿跡の地名は残っていたことがわかる。(後略)
 
今の千葉地方裁判所の場所に「御殿」があったと言われているが古い記述にも既にその跡が見られないとあるので直接的な証拠はないものの、強く推論されるとのことです。
もう一つ、私たちは城というといわゆる天守閣を思い起こしますが、天守閣を備えた城という形式は近世のものであって当時は土塁などで囲まれた、住居を兼ねたものであったというのです。
なので現在通称千葉城とされている猪鼻城は当時の千葉氏の館でも「城」でもないということです。
千葉氏は以前の記事で触れましたように
 1455年(康正元年)馬加康胤・原胤房連合軍千葉城を攻める→千葉氏宗家滅亡
 文明年間、千葉孝胤、本佐倉へ移る
 1590年(天正18年)豊臣秀吉、後北条氏を滅す→千葉氏、原氏など滅亡
          (徳川家康、江戸城に入る)
滅亡とあるのですがこれは宗家が滅亡したのであって分家筋は残ったわけです。
しかしだからこそ本家の居城は壊されてしまったわけでしょうね。
 
 
千葉いまむかし 第一一号
 千葉市教育委員会 (千葉市立郷土博物館市史編纂担当)
 平成一〇年三月三一日発行
 千葉城跡概説
 ─千葉氏居城の基礎的考察─
 一、はじめに
 千葉城跡は JR千葉駅から南東に約一・五kmの標高約二〇mの高台にあります。その地名から猪鼻城跡と呼ばれることもありますが、中世に活躍した有名な千葉氏の居城として一般の人にも理解しやすい千葉城跡という名称をここでは用いたいと思います。現在、城の天守閣の形をした千葉市立郷土博物館が、城跡に建てられており、格好の目印になっていますが、この建物は近世の城を模したもので、中世の城である千葉城とはまったく関係はありません。千葉氏の時代にはこのような建物は存在しませんでした。中世の城はほとんどが土塁と堀によって守られたもので、建物も多くは平屋だったようです。(後略)
 二、千葉氏と千葉城
 (中略)
P3
鎌倉時代には幕府の有力な御家人となり、鎌倉時代から室町時代において千葉城が千葉氏の居城として使われますが、享徳四(一四五五)年、千葉介胤直とその子宣胤は、一族の原氏と馬加康胤によって攻められ、千葉城は落城し千葉宗家は滅んでしまいます。この後、馬加康胤の系統が千葉氏の本宗を継ぎますが、本佐倉城(国立歴史民族博物館がある佐倉城とは別のところで、二kmほど東にあります)を本拠とし、千葉城は廃城となったとされます(中略)
 千葉城が歴史の上に再び登場するのは、江戸時代の終わりの頃になってからのことです。(後略)
P6
 四、千葉氏の屋敷はどこか
 『千学集抜粋』の城下の記述で大きな問題となるのは、肝心の千葉氏の屋敷がどこにあったかということが抜けていることです。中世の城は近世の城とは異なり、城主となるべき人が常に生活していた場所ではない場合が多いからです。高台などにつくられた城はいくさの時など、いざという時に使うもので、通常は城の麓の平地で生活していたことが多かったようです。千葉城の場合も城の周辺に千葉氏の館が設けられていた可能性があります。しかし、別の考え方として『千学集抜粋』を書いた人物にとっては、千葉氏の屋敷はそのまま千葉城であって、屋敷がどこにあるのかわざわざ書くほどのこともない自明のことであったのかもしれません。千葉城の発掘調査により、郷土博物館の脇でかなり立派な建物跡が検出されているので、こうした建物跡が千葉氏の屋敷であったことも十分考えられます。
 これに関連して徳川光圀(水戸黄門)(管理者付記:寛永5年(1628年)〜元禄13年(1701年))の紀行文『甲寅紀行』に千葉の記述があります。(管理者付記:延宝二(1674)年四月二十七日千葉・妙見寺、寒川村を通る)(中略)ここに書かれた「千葉屋敷」が千葉氏の館であると思われますが、現在のどのあたりになるのかは不明です。現在轟町にある来迎寺(千葉貞胤建立)が、第二次世界大戦の戦災にあうまでは千葉神社の東の道場北町にありましたが、ここではないようです。今のところ千葉神社の東に、それらしい場所を見つけることはできません。少なくとも千葉城を千葉氏の屋敷とみていなかったことは明らかです。光圀は千葉城跡も訪れて城の図を写したようですが、残念ながら現存しません。千葉城の主を「里見氏の家老円城寺某と云ふ者の居城」という話も聞き書きしていますが、里見氏というのは千葉氏の誤りでしょう。円城寺氏は先に触れた千葉氏の重臣のことです。光圀の調査旅行ですからかなり本格的な史料の採集が行われたはずですが、それでもこの時代には既に正確なことは伝わっていなかったのでしょうか。いずれにしても、千葉城(猪鼻城)がそのまま千葉氏の居城と決めつけるわけにはいかないと思います。(後略)



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というわけで家康が元和元年(1615年)鷹狩りに千葉や土気を経由して東金に行ったという記述にある「千葉」は現在の千葉地方裁判所にあったと思われる千葉氏の館と思われるわけですが、そのときはまだ建物が残っていたのでしょうね。

徳川光圀が千葉を訪れたのが1674年で60年弱経っているわけでそのときには残っていなくても不思議ではありませんが、千葉氏宗家が滅亡したのが1455年ですから1615年に建物が残っていたとすれば何かの用途に使われていたのでしょうね。


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徐々に充実するショッピングセンター [地域]

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よく利用するショッピングセンターが改装を終えたもう1年くらい経つのですが、まだ埋まっていないスペースもあります。

一番よく利用するのは三省堂です。


フードコートもよく利用するようになりました。

フルーツのケーキやサンドイッチ、ジュースがメインのお店があるのですが、そこでは12時までにドリンク単品を頼むとなんとモーニングプレートがついてきます。

ドリンク単品のお値段なので、無料ということになります。

プラス100円とか200円でもいいと思うのですが、これで利益が出るんでしょうか?

まあトーストが小さくて薄いのうあ仕方がないかなと思います。

もう一つだけ注文をつけるならゆで卵の殻がきれいに剥けないことです。

それにはいくつか簡単なコツがあるのですが、それだけがちょっと残念です。



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で、今度サイゼリヤがオープンするとのことです。

以前はファーストフード店やケーキがメインのお店もあったものの飲食店が多いとは言えなかったのですが、改装中はパスタなどを出すお店が一軒しかなかったのでちょっと楽しみです。

でもまだ少ないですね。

スペースはあるようなので新規に出店するところがあるかもしれませんが。


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家康の鷹狩の経路は [地域]

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以前取り上げたテーマですが、今回久しぶりに博物館に行ったので改めて取り上げてみようと思います。

船橋から東金に至る鷹狩のための街道は御成街道と呼ばれ、一部を除き今でも道路として使われています。

その途中の千葉市若葉区にある遺構が「御茶屋御殿」として知られ、鷹狩の際家康がここで休憩したいうのが一般の認識です。


ところがそのいわば通説に異をを唱えるのがここに寄稿された論文の著者 簗瀬 裕一 氏です。



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「千葉いまむかし」18号
 千葉市教育委員会(千葉市立郷土博物館 市史編纂担当)
  平成一七年三月三一日発行
千葉におけるもう一つの御殿後 ─千葉御殿と千葉御茶屋御殿─
P41
このように中田町にある「御茶屋御殿跡」については、基本的な事実はかなり明らかになってきたといえるが、しかしなお、いまでは「千葉御茶屋御殿跡」と呼ばれることの多いこの遺跡の評価において、最も基本的な部分が未解決であると筆者は考えている。
(中略)
しかし、本稿で以下述べるように、右でふれた『実紀』等にみえる「千葉」は、中田町にある御茶屋御殿ではなく、現在の千葉市の中心部、かつての旧千葉町を意味するか、もしくはそのなかにあった「千葉御殿」を示すものであり、したがって「千葉御殿」と「千葉御茶屋御殿」とはまったく別のものなのである。
(中略)
P43
本稿で参考にした史料は、『習志野市史』第二巻史料編(I)(第四章東金御成街道)に採録されたものによるところが大きい。
1 御殿と御茶屋について
(中略)
その定義は、「御殿とは将軍自身(大御所・世子を含む)が旅行や外出の際、宿泊するために城内以外に設けた施設であって小規模なものは御茶屋とよばれる」・「宿泊用に対し小規模なものを御茶屋という」とする中島義一氏の説明が簡潔である。
P45
3 千葉御殿について
 千葉御殿については、徳川光圀の『甲寅紀行』にみえる記述がいまのところその位置を知る手がかりとなる唯一に近いものである。
延宝二年(一六七四)四月二十七日に水戸光圀は千葉に入り、「古城の山根に水あり。「東照宮御茶の水」と、云ひ伝う。右の方に森あり。「東照宮御旅館の跡なり」と云ふ。」という文章を残している。ここでは、今でも残っている「お茶の水」については伝承扱いであるが、家康の「御旅館の跡」の森については、伝承という扱いではなかったことに注意すべきである。古城(猪鼻城跡のこと)の右手という位置関係から、千葉御殿伝承地である千葉地方裁判所の敷地を「東照宮御旅館の跡」に比定するのに矛盾はない
(中略)
4 東金へのルート
(中略)
P48
 この慶長十九年の東金鷹狩りで、家康が東金御成街道を通らなかったのは、街道が完成していたにもかかわらず通らなかったのか、それともまだ未完成だったのか確たる証拠はないが、近隣の農民等を大量動員して作り上げ、完成していたにもかかわらず、そこを通らなかったということであれば、鷹狩りの名目で各地に出向き、よく民情を視察したといわれる家康の行動としてはふさわしくないのではないかと思われる。とすれば、慶長十九年正月の段階では完成していなかったと考えるべきであろう。右に見た記録類では、家康の東金鷹狩りの意向が示されてから、鷹狩りの実施まで長く見ても一ヶ月ほどであり、実際の工事にかかれる態勢を整えるまでの時間を考慮すれば、まさに「三日三晩」の突貫工事によって街道を完成させなければならないが、約三十七kmもある道路をそのような短期間で完成するのは不可能であったと考えられるのである。この工事は、現代の高度な土木技術を機械力をもってすれば可能かもしれないが、それでも簡単なものではないはずであり、ましてや江戸初期においては無理であったと考えられるのである。
 したがって、慶長十年(管理者注。これは慶長十九年の誤りと思われます)の東金鷹狩りにおいては東金御成街道は完成しておらず、家康は千葉から土気街道(これも御成街道と呼ばれた)を経て、その先はおそらく大網を通って東金に入ったものであろう。そして、東金御成街道を初めて家康が通ったのを確認できるのは、翌元和元年である。『実紀』等によれば、家康は往路は、船橋─千葉─東金、復路は東金─船橋のルートをとっている。往路の千葉─東金については、土気を経由したのか、旧東金街道を通り直接東金に入ったかは不明であるが、千葉を経由しているので、この時は東金御成街道を通っていないと考えられる。復路については千葉を経由した形跡がなく、金親村で神尾守世(久宗)が家康に御膳を献じており(『断家譜』巻十)、金親町の金光院で休息したともされるので、この時初めて東金御成街道を通り、千葉御茶屋御殿も使われたものと考えられる。『断家譜』巻十によれば、神尾氏は元和七年と八年にも将軍に御膳を献じているので、この二回についても東金御成街道を通った可能性が高いが、元和八年については、他の記録類にはその事実が確認できない。
 土気経由のルートについては、寛永元年正月に小栗又兵衛信友が「東金離館」とともに「土気の茶亭」の造営のために派遣され、同年十二月に二カ所とも竣工している。このような時期に、「土気の茶亭」の造営が行われたことは、東金御成街道以外にも東金へのルートを確保しておくための処置であったと考えられよう。
 以上のように、東金への鷹狩りにおいては、東金御成街道が唯一のものではなく、土気経由のルートも当初から使われており、少なくとも二つのルートが維持・併用されていたことが確認できるのである。
P58
6 まとめ
 慶長十九年や元和元年の『徳川実紀』の記事にみえる「千葉」については、従来考えられてきたように、千葉御茶屋御殿ではなく、文字通り当時の千葉の町、またはそこにあった千葉御殿を示しているとみるべきである。千葉地方裁判所の敷地に相当する「御殿」伝承地についても、実際の遺構として考えてよいと思う。
(中略)
 そして、慶長十九年の家康の東金鷹狩りにおいては、東金御成街道はまだ完成していなかったために使われることはなく、千葉から土気を経由して東金に至っており、御成街道と千葉御茶屋御殿が使われたのは、翌元和元年であったのである。したがって、東金御成街道については、家康の東金鷹狩りに間に合わせるべく、「三日三晩で造られた」という良く知られている話は、事実とはいえないものである。(後略)



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古地図には現在の「御茶屋御殿」と思われるものが記載されています。



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黒丸で示された「御殿」の右下に「いさこ」とあるのは現在の八街市砂(いさご)です。


その左の「御殿」が現在の千葉地方裁判所の位置にあったと考えられる「千葉御殿」であろうということです。

その左にある「さん川」は現在の千葉市中央区「寒川」であると思われます。



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別の時代の地図では「カナヤ」(千葉市若葉区金親)と「イサコ」の間には「古城」と記載されています。

これは既に遺構になってしまっていたのではないかと思われます。

「千葉御殿」であったと思われるものも既に建物はなかったようです。



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さて簗瀬氏が触れていないポイントを補うように考えてみるのですが、そもそも今の千葉市は最初から同じ範囲であったのではなく合併を何度か行った結果今の姿になっています。


合併の様子はこのリーフレットに簡潔にまとめられています。


その他次の資料も参照しています。


千葉県の歴史 別編 地誌2  (地域誌)」
 県史シリーズ27    H11. 3. 25
P90, 91, 93
千葉縣千葉郡誌」 1989.5.31
P80, 81 地図
千葉市史 近世近代編」 S49. 3. 31
P166, 167
AD 645(大化元年)下総国千葉郡
AD 717(養老元年)頃 
    千葉郡内に千葉山家池田三枝
 
 

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