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千葉城 ≠ 猪鼻城 [地域]

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先日家康が当初東金へ鷹狩りに出かけたとき立ち寄ったのは現在の千葉市中央区にあったとされる「御殿」であって、千葉市若葉区にある「御茶屋御殿」ではないという説を取り上げました。

それに加えて当時は「御茶屋御殿」があったのは千葉町に含まれなかったはずだと述べました。


その論文の著者である簗瀬裕一氏が同じ「千葉いまむかし」の No.13 に「御殿」に着いて述べられています。



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千葉いまむかし No.13
 千葉市教育委員会(千葉市立郷土博物館 市史編纂担当)
 平成一二年三月三一日発行
 中世の千葉 ─千葉堀内の景観について─
  簗瀬裕一
P1
はじめに
 千葉氏が千葉に本拠をおいた頃、その館を中心とした場所は「堀内」と呼ばれていた。しかし、その実体は不明な部分が多い。
(中略)さらに、本稿の重要な主題でもある千葉城(千葉氏の館)の位置については、『抜粋』(管理者補記。『千学集抜粋』)の当該部分には、なにも記述が無いにもかかわらず、猪鼻城跡に比定されている。この他の部分も含め、これらの復元図には問題点が多いのであるが、こうした図により千葉氏の館の所在地を、猪鼻城跡とする考え方が既に一般に普及しているのが実状であろう。城郭史研究の成果からは、千葉氏が千葉にいた時代は、猪鼻のような台地上ではなく、現在町並が広がる低地部分に館があったとみるべきなのであるが、このような研究者の声は一般には届いていないし、これまでまったく検証的作業もなされてこなかったのである。こうした点は、既に十年以上も前に柴田龍司氏により指摘されていることでもあるが、『抜粋』の記述による「城下町」のイメージは、いまもなお根強いものがある。
 筆者も本誌11号に掲載した小論(以下前稿とする)や『千葉県の歴史』史料編1において、千葉城跡について論じる機会があったが、それらの小論においても猪鼻城跡=千葉城として述べた経緯があり、誤った中世の千葉の理解を助長する一翼を担ってしまったことは否定できない。
(後略)
P7
II  千葉館の所在地をめぐって
 康正元年(享徳四年七月改元)(一四五五)に千葉宗家が滅ぶまで本拠とした千葉城といえば、猪鼻城跡を考える人が多いであろう。しかし、果たして猪鼻城跡=千葉氏の館跡であろうか。まず、この問題から始めたい。
 1  千葉城
(中略)
P8
 信頼できる史料における「千葉城」の初出は、『相馬文書』にみえるものである。建武二年、千田胤貞と千葉介貞胤による一族内紛の時、千葉が合戦の場となった。これに関して同文書には「千葉城」・「千葉楯」が攻撃されたとある。『吾妻鏡』にみられる「城」・「城郭」を検討した中澤克昭氏は、鎌倉期の城郭について二種類に大別できるとしている。そのひとつは、日常生活の本拠地から「引籠」るタイプで、堀や城壁を築いて新たに構えられることが多いという。このタイプに衣笠城や金砂城があげられている。これに対しもうひとつ、日常的に居住している住宅や居館が、戦いに臨み城となったものがあるという。千葉城について考えてみると、先に述べたように『相馬文書』には「千葉城」と「千葉楯」のふたつがみえ、これは内容からも同じものをさしていることが明らかである。中澤氏の言うようにまさに千葉館(楯)が戦いの時に、城郭化されて千葉城となったことを意味しているものと考えるべきであろう。
 しかしながら「千葉城」は、一級史料ではこの『相馬文書』の例が唯一のものなのである。ほぼ同じ頃の、『金沢文庫文書』には、「堀内禅室」や「堀内光明院」(識語編八七三・八七四)といった記述がみられ、時代は下がるが(十六世紀)、『抜粋』にも「堀内北斗山金剛授寺」・「堀内牛頭天皇」といった表現がみられ、千葉氏の館を中心とした場所については、一般的には「堀内」と呼ばれていたとみられるのである。他に「千葉の城」・「千葉城」は、十六世紀後半成立の『鎌倉大草紙』(『群書類従』)にもみられる。これは享徳の大乱のなかで、千葉氏も鎌倉公方足利成氏と関東管領上杉氏の争いに巻き込まれ、千葉を舞台として千葉宗家が滅亡する戦いと、その後の両派の対立のなかに千葉城があらわれるものである。このように、『相馬文書』と『鎌倉大草紙』にみえる「千葉城」は、いずれも戦時のものであるので、館が一時的に城となったか、城郭構えの館であったものであろう。千葉宗家が滅ぶまでの史料全般の中に、千葉城がほとんあらわれないのは、千葉氏の館が通常は城の範疇に入らないものだったことによると考えられる。したがって、猪鼻城跡を建武二年の『相馬文書』の「千葉城」や『鎌倉大草紙』享徳四年の「千葉の城」にあてる必要はなく、以下で述べるように、千葉館は猪鼻城跡ではなく、「御殿跡」とされる千葉地方裁判所のある地点と考えているので、そこにあった館が、いくさに臨み城となったものとみるべきであろう。
P14
 5  いのはな
 千葉館が他にあり、猪鼻城が戦国期の城跡であったとすると、この城は誰が築いたのかということが問題となってこよう。「いのはな」は、中世の史料においてほとんど見いだすことは出来ないが、『抜粋』には、妙見宮座主範覚〔永正十年(一五一三)〜天文十二年(一五四三)〕に関してしてわずかにみえる。「一条院薄墨の御証文は、範覚の世に井の鼻を持れし時、永正十三年丙子八月廿三日、三上但馬守二千余騎にて押寄て打落す、此時薄墨の御証文は宝器ともみな失にける」とあり、範覚が猪鼻に拠ったことが推定され、「範覚の代軍役なされし」「範覚軍に出給ひ」ともみえるから、範覚の時に戦があり従軍したことも推定できる。猪鼻で戦いがあったことは、『本土寺過去帳』(『千葉縣史料』中世篇 本土寺過去帳)によっても確かめられる。「原蔵人丞殿法名郎寿 東六郎殿証仏果 永世三丙子八月 千葉井花ニテ打死諸人同」とあり、年号と干支が一致しないが、『抜粋』と八月というのが共通するので、永正十三年丙子が正しいものと考えられる。(後略)
P16
   6. 千葉館の所在地
 それではどこに千葉氏の館があったのかというと、その手がかりとなるものは少ない。『抜粋』では、妙見尊を「堀内」から移したと何度も書かれており(金剛授寺の項参照)、その感じからすると、千葉館の所在地は現在の千葉神社の位置からそう遠くではなさそうである。前項で引用した『甲寅紀行』には、「妙見寺の東に、千葉屋敷あり」とある。妙見寺(現千葉神社)の東にはそれらしい場所はなく、以下に述べるように千葉館に相当するのではないかという場所が、現裁判所のところにあるので、東と南の方角を誤ったものと考えたい。
 千葉の歴史に詳しかった故和田茂右衛門氏の『社寺よりみた千葉の歴史』(以下『社寺』)によれば、千葉地方裁判所の地は「御殿跡」と呼ばれており、これが千葉氏の館の跡ではないかとしている。野口実氏も猪鼻城跡と千葉城につてふれて、猪鼻城跡は『相馬文書』にみえる建武二年千田胤貞方が千葉介貞胤の本拠千葉楯を攻めた頃築かれたとし、千葉氏の館は地方裁判所のある「御殿跡」が守護の館をおくのにふさわしいとしている。小高春雄氏は、前述のように猪鼻城跡と千葉城を別ものと考えており、千葉城は城郭構えの館で、本町二〜三丁目あたりの市街地の下に埋もれていると推定している。外山信司氏も地点は特定していないが、千葉市街地の立地する微高地上に館があったとしている。
 裁判所の地が御殿跡と呼ばれていたことは確かで、近世の千葉町の絵図にも、「御殿前」・「御殿地入口」の記載がある。(第13図)。『千葉縣千葉郡誌』(六二六頁)には、千葉地方裁判所について、「此地御殿趾の称あり、蓋し千葉氏に夤縁あるものの如きも今考證にたるものなきを遺憾とす」とあり、大正時代にも御殿跡の地名は残っていたことがわかる。(後略)
 
今の千葉地方裁判所の場所に「御殿」があったと言われているが古い記述にも既にその跡が見られないとあるので直接的な証拠はないものの、強く推論されるとのことです。
もう一つ、私たちは城というといわゆる天守閣を思い起こしますが、天守閣を備えた城という形式は近世のものであって当時は土塁などで囲まれた、住居を兼ねたものであったというのです。
なので現在通称千葉城とされている猪鼻城は当時の千葉氏の館でも「城」でもないということです。
千葉氏は以前の記事で触れましたように
 1455年(康正元年)馬加康胤・原胤房連合軍千葉城を攻める→千葉氏宗家滅亡
 文明年間、千葉孝胤、本佐倉へ移る
 1590年(天正18年)豊臣秀吉、後北条氏を滅す→千葉氏、原氏など滅亡
          (徳川家康、江戸城に入る)
滅亡とあるのですがこれは宗家が滅亡したのであって分家筋は残ったわけです。
しかしだからこそ本家の居城は壊されてしまったわけでしょうね。
 
 
千葉いまむかし 第一一号
 千葉市教育委員会 (千葉市立郷土博物館市史編纂担当)
 平成一〇年三月三一日発行
 千葉城跡概説
 ─千葉氏居城の基礎的考察─
 一、はじめに
 千葉城跡は JR千葉駅から南東に約一・五kmの標高約二〇mの高台にあります。その地名から猪鼻城跡と呼ばれることもありますが、中世に活躍した有名な千葉氏の居城として一般の人にも理解しやすい千葉城跡という名称をここでは用いたいと思います。現在、城の天守閣の形をした千葉市立郷土博物館が、城跡に建てられており、格好の目印になっていますが、この建物は近世の城を模したもので、中世の城である千葉城とはまったく関係はありません。千葉氏の時代にはこのような建物は存在しませんでした。中世の城はほとんどが土塁と堀によって守られたもので、建物も多くは平屋だったようです。(後略)
 二、千葉氏と千葉城
 (中略)
P3
鎌倉時代には幕府の有力な御家人となり、鎌倉時代から室町時代において千葉城が千葉氏の居城として使われますが、享徳四(一四五五)年、千葉介胤直とその子宣胤は、一族の原氏と馬加康胤によって攻められ、千葉城は落城し千葉宗家は滅んでしまいます。この後、馬加康胤の系統が千葉氏の本宗を継ぎますが、本佐倉城(国立歴史民族博物館がある佐倉城とは別のところで、二kmほど東にあります)を本拠とし、千葉城は廃城となったとされます(中略)
 千葉城が歴史の上に再び登場するのは、江戸時代の終わりの頃になってからのことです。(後略)
P6
 四、千葉氏の屋敷はどこか
 『千学集抜粋』の城下の記述で大きな問題となるのは、肝心の千葉氏の屋敷がどこにあったかということが抜けていることです。中世の城は近世の城とは異なり、城主となるべき人が常に生活していた場所ではない場合が多いからです。高台などにつくられた城はいくさの時など、いざという時に使うもので、通常は城の麓の平地で生活していたことが多かったようです。千葉城の場合も城の周辺に千葉氏の館が設けられていた可能性があります。しかし、別の考え方として『千学集抜粋』を書いた人物にとっては、千葉氏の屋敷はそのまま千葉城であって、屋敷がどこにあるのかわざわざ書くほどのこともない自明のことであったのかもしれません。千葉城の発掘調査により、郷土博物館の脇でかなり立派な建物跡が検出されているので、こうした建物跡が千葉氏の屋敷であったことも十分考えられます。
 これに関連して徳川光圀(水戸黄門)(管理者付記:寛永5年(1628年)〜元禄13年(1701年))の紀行文『甲寅紀行』に千葉の記述があります。(管理者付記:延宝二(1674)年四月二十七日千葉・妙見寺、寒川村を通る)(中略)ここに書かれた「千葉屋敷」が千葉氏の館であると思われますが、現在のどのあたりになるのかは不明です。現在轟町にある来迎寺(千葉貞胤建立)が、第二次世界大戦の戦災にあうまでは千葉神社の東の道場北町にありましたが、ここではないようです。今のところ千葉神社の東に、それらしい場所を見つけることはできません。少なくとも千葉城を千葉氏の屋敷とみていなかったことは明らかです。光圀は千葉城跡も訪れて城の図を写したようですが、残念ながら現存しません。千葉城の主を「里見氏の家老円城寺某と云ふ者の居城」という話も聞き書きしていますが、里見氏というのは千葉氏の誤りでしょう。円城寺氏は先に触れた千葉氏の重臣のことです。光圀の調査旅行ですからかなり本格的な史料の採集が行われたはずですが、それでもこの時代には既に正確なことは伝わっていなかったのでしょうか。いずれにしても、千葉城(猪鼻城)がそのまま千葉氏の居城と決めつけるわけにはいかないと思います。(後略)



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というわけで家康が元和元年(1615年)鷹狩りに千葉や土気を経由して東金に行ったという記述にある「千葉」は現在の千葉地方裁判所にあったと思われる千葉氏の館と思われるわけですが、そのときはまだ建物が残っていたのでしょうね。

徳川光圀が千葉を訪れたのが1674年で60年弱経っているわけでそのときには残っていなくても不思議ではありませんが、千葉氏宗家が滅亡したのが1455年ですから1615年に建物が残っていたとすれば何かの用途に使われていたのでしょうね。


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