パンフレット:三島由紀夫追悼公演「サロメ」 [本]
三島由紀夫が「サロメ」の演出をし、公演が二回行われたことは以前取り上げました。二回目は一回目の十一年後で、自決の三ヶ月後でした。
今回その二回目の公園のパンフレットを入手することができました。
サロメは 森 秋子、ヘロデは 勝部 演之、ヘロデアは 南 美江とあります。
この文章は一回目からの転載と思われます。
日夏耿之介、澁澤龍彦、森茉莉といった方々も文章を寄せられています。
三島の文章に続く和久田誠男さんの文章に三島の「ワイルド論」から引用されています。
「私がはじめて手にした文学作品は『サロメ』であった。これは私がはじめて自分の目で選んで自分の所有物にした本である。(後略)」
最初の上演までに二十年をかけたのですが、その始まりはここにあったのですね。
この劇団は演劇の要素の中で「言葉」を最も重要視するとあります。
冒頭の文章に
われわれはイプセンがサルドウに学んだ初心にかへる。日本の新劇のあらゆる阿呆らしい先入主を蹴散らかす。
とあります。
松浦竹夫さんの文章に三島の言葉が引用されています。
「ぼくたちは演劇の捨て石になろうよ」と、かつて、劇団を創立した時、三島氏は云った。また、ある日こうも云った。「ぼくたちが考えている芝居を二人とも生きているうちに観れるかな?二十年後か、三十年後かに。」
本筋とは関係ないのですが、三島が「観れる」という言葉遣いをしていたことがわかって興味深いです。
三島のスケッチが二枚(舞台装置とサロメの衣装)掲載されています。
先日取り寄せた「サロメ」のダンス版とオペラを視たのですが、ダンス版はいまいちピンと来ませんでした。
オペラの方は時間の関係で途中まででしたが、ヨカナーンを演じたブリン・ターフェルの声が素晴らしく、他のものも鑑賞しようかという気になりました。
「観れる」は聞き手の脳内変換の結果かも(^_^;)
北見治一『回想の文学座』(中公新書,1987)にも
三島の新劇に対する批判が随所に出てきました(^^)
by middrinn (2018-04-25 21:51)
middrinn さん、こんばんは。
そうかもしれませんね。
でも、これ等の人たちは言葉に大層敏感だと思いますのでこの通りだったのかもしれないとも思います。
私たちは「観られる」が正しいと考えますが、これだと複数の意味があると言えますね。
漢字を書くことができるという時に「書ける」と言いますが、元々はそうではなかったのかもしれません。
「新しい(あたらしい)」は元は「あらたしい」であったはずですし。
by センニン (2018-04-26 20:35)