伊藤左千夫の生家@山武市 [地域]
イチゴ狩りの後はすぐ近くの歴史民族資料館を訪れました。
資料館は歌人伊藤左千夫の生家に隣接して建てられています。
生家や茶室を見学する場合でも料金が必要です。
歌碑が建てられています。
正岡子規に師事した後(明治37年頃)に読まれた歌のようで、左千夫の 左 という名が書かれています。
牛飼いが歌よむ時に世の中の
あらたしき歌おほひに起る
以前織り上げたことがあるような気がしますが、
新しい、は あたらしい と今では読むのですが、本来は あらたしい なのです。
新た、は あらた ですから。
資料館にも展示されていましたが、「さんむのふるさと散歩」と題する文書が PDF で公開されています。
右が母屋で、当時からここに建っています。
左の茶室は茅場町に建てたられたものを移築したものです。
引きがないので 10mm で撮ります。
奥左にくぐり戸があります。
氷が張っていました。
茶屋脇の道です。
母屋は典型的な農家住宅です。
父親は地元の名士であったそうで、当時からこの蔵があったそうです。
母屋の裏側です。
裏口から土間を望みます。
表の縁側です。
土間には竃があります。
焚き口が鳥居の形をしています。
荒神様がいるのです。
土間に隣接する北側の部屋です。
囲炉裏があります。
ヤツデが所々にあります。
植物の名としては “あららぎ” とひらがなで表記するようです。
1981年に映画化された時の主演は松田聖子さんです。
説明には初主演、とありました。
成東町(当時)の観光 PR ポスターにもその姿が使われていました。
梅はまだ咲いていませんでした。
何の50周年なのか訊ねましたところ没後50年とのことでしたが、亡くなったのは大正2年(1913年)ですから、50年目は1963年(昭和37年)ですので、計算が合わないようです。
椿や山茶花が見られました。
水仙は八重でした。
短歌雑誌の名前の元になったのかもしれません。
『野菊の墓』は若い頃読みましたが、現在はパブリックドメインでネットで読むことができます。
久しぶりに読みましたが、純愛小説の原点ですね。
『ホトトギス』を読んだ漱石も褒めたそうで、”金”と署名された手紙(資料館に展示されています)で
自然で淡白で可哀
想で美しくて野趣
があって結構ですあん
な小説なら何百篇よんでも
よろしい 三六頁の
民さんの御墓に参りに
来ました
と云ふ一句は 甚だ佳と存
じます
と褒めていますが、続いて
只次にある「只一言
である云々」の説明ハない方
がよいと思ひます
と一つ注文をつけています。
歌碑の歌についてですが、左千夫は眼病によって大学を中退した後牛乳店の勤務を経て明治18年本所区茅場町(墨田区江東橋。現在の錦糸町駅前界隈)に牛乳搾取業を開業します。
余談ですが、成東町は当時乳牛を飼う家が多かったようで、古谷乳業もこの地で昭和20年に創業し、平成4年に千葉市に移転して現在に至っています。
牛飼いが歌よむ〜
の歌は乳牛を飼っていた左千夫が歌人として立つ決意を表したもののようです。
あらたしき歌
はもちろん子規の主張する歌のことですね。
伊藤左千夫の生家、拝見させて頂き、もう行って観て来た気分になってます^_^;
松田聖子主演の映画で、相手役の「民さんは、野菊のような人だ」という台詞は
インプットされてます^_^; 伊藤左千夫の牛飼いの歌をめぐる一論争(?)が、
関川夏央&谷口ジロー『「坊っちゃん」の時代』(双葉社アクションコミックス,
1987)で描かれており、もし未読なら、名作ですので一読をお奨めします(^^)
by middrinn (2018-01-14 22:12)
middrinn さん、こんばんは。
そのセリフ、みんな覚えているようです。
高校生の時、女子だけ集められて現代(当時)の若い女性がこの作品をどう思うかという外部の人(どこなのかは男子共には知らされませんでした)インタヴューのようなものがありました。
まるで保健の授業のようですが、その時の女子たちの意見では「古い」でした。
その女子たちも今読んだらまた違った感想を持つだろうと思います。
左千夫の生家はここでも、舞台は松戸ですね。
矢切の渡しが登場します。
コミック、読みました。
探してもう一度読んでみます。
by センニン (2018-01-14 22:44)
おはようございます。昔の生活ってどんな感じだったのだろうと思いました。すごいお屋敷ですね。^^;
by ソニックマイヅル (2018-01-15 10:22)
ソニックマイヅル さん、こんばんは。
左千夫の父は議員も務めたようです。
左千夫の眼病について述べた文書(徴兵の猶予のためらしい)が資料館に残っています。肩書きに "平民農" とあるのが印象に残りましたが、影響力があったのだろうと思います。
建物は昔の日本人の暮らしぶりを示す貴重な資料ですね。
子供の頃を思い出します。
今と比べると十分な暖房はありません。
もちろん冷房もです。
囲炉裏のある部屋も板敷きですから寒かったでしょうね。
左千夫の子は13人(女の子9人、男の子4人)ですが、生まれた当日に亡くなった子もある一方、女の子の一人は平成まで生きています。
人生50年の時代です。
by センニン (2018-01-15 21:34)