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家康は「千葉御茶屋御殿」を利用したか? [地域]

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以前も触れたことがある「東金御成街道」です。



船橋から東金までのほぼ一直線の道で、家康が鷹狩りのために作らせたと一般に認識されています。


三日三晩で作られたとか一夜で作られたとかの伝承が残っていますが、本当に三日で作られたかどうかはともかくとして、短期間で作られたものであるようです。



史跡としては千葉市若葉区御殿町に「千葉御茶屋御殿」跡が残っていて、ここを家康が利用したと言われています。


終点は現在東金高校となっている位置にあった「東金御殿」ですが、その先山武市までも同時期にほぼ一直線の道が作られたようです。


街道は千葉市から八街市に入った地点で山林になってしまい、足を踏み入れることができませんが、その少し先に往時の姿を残す部分があり、八街市の史跡に指定されています。


その先はまた開墾(鍋島開墾)のために消えてしまい、ごく一部、民家の入り口に痕跡を残すのみで途切れ、地区の墓地を過ぎる辺りから街道はまた姿を現します。


千葉市若葉区から八街市内を通って国道126号線に向かう道路の途中に道標が立っていて、街道が嘗てここにあったことを示しています。



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地区の墓地です。



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この左の道路が御成街道で、現在はここで左に曲がっていますが、嘗てはまっすぐ通っていました。



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ここにも道標があります。

墓地から東金市方面を望みます。

 

 

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東金市方向から見たところです。



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墓地の端から街道があったはずの方向を望みます。



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左から右に立ち並ぶ木が八街市の史跡に指定された御成街道の痕跡です。

史跡ですが、ここは Fさんの私有地です。



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右に見える案内板から右が痕跡です。



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私有地で、道路としては使われていないので往時の姿を今に伝える貴重な史跡となっています。



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反対側は畑になってしまっていて、痕跡は全くありません。



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八街市(手前)と千葉市の境です。



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境界辺りから千葉市方向を望みます。



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千葉市側から境界方面を望みます。


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このカーブの頂点から先にまっすぐ延びていたはずです。

 


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八街市に入った位置から八街方面を望みます。



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境界より少し八街市に入った位置に案内版が立っています。



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御茶屋御殿跡への入り口です。



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さて今回の本題は御茶屋御殿です。


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現在千葉市若葉区の御茶屋御殿跡は「千葉御茶屋御殿跡」と呼ばれていますが、これは正しくないという説が提唱されています。


本来この土地の地名をとって「中田御茶屋御殿」と呼ぶべきであるというのです。



かつて(明治初期には)この辺りは千葉市ではなく千葉郡中田村でした。


徳川初期まで遡ることができる記録はありませんが、現在の千葉市、嘗ての千葉町とは別の地域であったことはほぼ確かです。



ここに二種類の資料があります。

ひとつは平成27年に八街市で開催された講演の記録、もうひとつは投稿された論文集です。


重要な箇所を引用します。

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平成26年度八街歴史講演会
「御成街道と八街」記録集 平成27年3月 八街市郷土資料館

P.14
講演3 郷土史研究家 本保弘文氏
「家康「鷹狩り」道
  =東金御成街道〜その謎を探る〜

 造成した村

 さて、この街道は、船橋市、習志野市、千葉市、四街道市、再び千葉市、八街市を通り、東金市に至る約37km、家康の「東金辺鷹狩り」のために造成した、ほぼ直線道です。この街道の造成について、現在、4通の古文書が見つかっています。1通は、千葉市の星久喜村のもの、1通は千葉市の金親村のもの、もう2通は習志野市の実籾村のものです。この中で、習志野市の実籾村のものの1通は、途中までしか残っていません。

 これらの現存する古文書には、この街道の造成に関わった村名、その村の工事距離などが書かれていますが、4通とも同一内容ではなく、村が抜けていたり、村名の順序が異なっていたり、工事距離数が違ったりしています。このため、これらの古文書を比較・精査し、江戸時代の絵図、村明細帳などの古文書、明治初めの迅速測図などと照合しながら、何とかこの街道の造成に当たった村々、その村の担当地域とその距離数を割り出しました。これにはかなりの時間を要し、苦労もしましたが、やっとできあがったのが、資料2(1)の「道普請に当たった村々とその分担距離・場所」の一覧表です。

     中略

 御成街道や御成新道の造成に駆り出された農民は「夫役」という税であり、作業に必要な道具や食料などは持参し、全て自己負担によって工事が行われました。そして、請け負った村の区間の工事が終わると、その役割が終了となります。このため、農民たちは、早朝から大木などに掲げられていた白旗を目標として工事を始め、夜間になるとやはり大木などに掲げられていた提灯の灯を目標にしながら工事を行ったという伝承があります。

 この他に伝承として、「一夜にして造り上げられた」とか「三日三晩で造られた」という話があります。かなり、工事を急いだようで、千葉市の犢橋町には直線の道にすべき所が大きく曲がっている所があります。これは、この付近の工事で、東金に向けての工事と船橋に向けての工事がここで結びつかなくなり、両方の村とも譲らなかったため、仕方なく曲げて結びつけたといわれています。

 他方、工事期間について「一夜で造り上げた村」「三日三晩で造った村」など、村によって違いがあるようです。家康が土井勝利を呼び、東金辺で鷹狩りをするので準備をするように命じたのが慶長18年(1613)12月12日、家康が御成街道を通ったのが翌19年(1614)1月8日。その間は26日です。この期間に御成街道と千葉・東金の2つの御殿を造り上げるわけです。研究者の中には、街道と御殿を造り上げたのは、家康の東金鷹狩りの2回目、元和元年(1615)11月で、工事は1ヶ年ほど費やしたという人もいます。しかし、当時は、まだ生きるか死ぬかの戦国時代の延長であったことを考慮に入れると、短期間で造り上げられたという方が正しいのではないかと思われます。



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千葉いまむかし No.18 平成17.3.31 千葉市教育委員会

  千葉におけるもう一つの御殿跡
          ─千葉御殿と千葉御茶屋御殿─
          簗瀬裕一氏(元千葉市教育委員会)
P.41

このように中田町にある「御茶屋御殿跡」については、基本的な事実はかなり明らかになってきたといえるが、しかしなお、いまでは「千葉御茶屋御殿跡」と呼ばれることの多いこの遺跡の評価において、最も基本的な部分が未解決であると筆者は考えている。千葉御茶屋御殿跡という遺跡名については、「御茶屋御殿跡」が千葉市に限らず各地に残っており、御茶屋御殿跡という一般的名称のみでは不都合なので、所在地の名を付すのが一番理解しやすい取り扱いである。そのような観点からすれば、千葉市の御茶屋御殿跡は、その所在地から本来なら「中田御茶屋御殿跡」と呼ぶべきであったのである。史料上でも千葉市の御茶屋御殿跡が、「千葉御茶屋御殿」と表記された例は確認されず、「千葉御茶屋御殿跡」という名称が歴史的なものであるかのように誤解される下地がここにあると言わざるを得ない。

 これまで『徳川実紀』(以下『実紀』)などの、慶長十九年一月や元和元年十一月の記事に見える「千葉」という地名については(第1表)、千葉御茶屋御殿跡にあてる理解がなかば通説化しており、徳川家康や家忠が東金で鷹狩りを行った時には、簡単に言えば、船橋から御成街道を利用し、千葉御茶屋御殿を経由して東金との往復を行ったと考えられてきた(第2図)。こうした理解により、通常地元では単に「御茶屋御殿跡」と呼ばれてきたこの遺跡に対し、「千葉御殿」や「千葉御茶屋御殿跡」という名称を与えるといったことが行われてきたものと考えられる。しかし、本稿で以下述べるように、右でふれた『実紀』等にみえる「千葉」は、中田町にある御茶屋御殿ではなく、現在の千葉市の中心部、かつての旧千葉町を意味するか、もしくはそのなかにあった「千葉御殿」を示すものであり、したがって、「千葉御殿」と「千葉御茶屋御殿」とはまったく別のものなのである。

 これまで、『実紀』等の「千葉」を「千葉御茶屋御殿跡」とみない意見は少数ながら存在したが、それが評価されることはほとんどなかったといえる。


4 東金へのルート
P.48
 こうした考え方については、前述のように『実紀』等にみえる「千葉」を千葉御茶屋御殿ではなく、そのまま千葉ないし千葉御殿と考えるとまた違った事実が明らかとなってくる。慶長十九年については、「上総国土気東金」(『駿府記』)がその目的地であった。具体的な経路については、『実紀』や『駿府記』には東金と千葉のみが書かれ、その間の詳しいルートは省略されているが、『當代記』では、家康が慶長十九年七日に「とけとうかね」へ出かけ、十八日に「とけ」より江戸へ帰ったとの記述があり、他にも『本光圀帥日記』第十一慶長十九年正月七日、『細川家記』忠興八十四年正月九日にも、土気・東金へ鷹狩りに出た記述が見える。『頂妙寺文書』「二月五日付け榮任書状」にも、「正月七日、大御所様、上総土気東金へ御成」との記事があり、一時史料として重要である。こうした一連の史料によるかぎり、この初回の東金鷹狩りは、千葉から土気を経由して東金を往復したと考えるのが妥当である。そうすると、この時は東金御成街道を家康は通っていないと考えられるのである。したがって、千葉御茶屋御殿にも立ち寄っていないはずである。

 この慶長十九年の東金鷹狩りで、家康が東金御成街道を通らなかったのは、街道が完成していたにもかかわらず通らなかったのか、それともまだ未完成だったのか確たる証拠はないが、近隣の農民等を大量動員して作り上げ、完成していたにもかかわらず、そこを通らなかったということであれば、鷹狩りの名目で各地に出向き、よく民情を視察したといわれる家康の行動としてはふさわしくないのではないかと思われる。とすれば、慶長十九年正月の段階では完成していなかったと考えるべきであろう。右に見た記録類では、家康の東金鷹狩りの意向が示されてから、鷹狩りの実施まで長く見ても一ヶ月ほどであり、実際の工事にかかれる体制を整えるまでの時間を考慮すれば、まさに「三日三晩」の突貫工事によって街道を完成させなければならないが、約三十七kmもある道路をそのような短期間で完成するのは不可能であったと考えられるのである。この工事は、現代の高度な土木技術と機械力をもってすれば可能かもしれないが、それでも簡単なものではないなずであり、ましてや江戸初期においては無理であったと考えられるのである。

 したがって、慶長十年(管理人注:慶長十九年の誤記と思われる)の東金鷹狩りにおいては東金御成街道は完成しておらず、家康は千葉から土気街道(これも御成街道と呼ばれた)を経て、その先はおそらく大網を通って東金に入ったものであろう。そして、東金御成街道を初めて家康が通ったのを確認できるのは、翌元和元年である。『実紀』等によれば、家康は往路は、船橋─千葉─東金、復路は東金─船橋のルートをとっている。往路の千葉─東金については、土気を経由したのか、旧東金街道を通り直接東金に入ったかは不明であるが、千葉を経由しているので、この時は東金御成街道を通っていないと考えられる。復路については千葉を経由した形跡がなく、金親村で神尾守世(久宗)が家康に御膳を献じており(『断家譜』考えられる巻十)、金親町の金光院で休息したともされるので、この時初めて東金御成街道を通り、千葉御茶屋御殿も使われたものと考えられる。『断家譜』巻十によれば、神尾氏は元和七年と八年にも将軍に御膳を献じているので、この二回についても東金御成街道を通った可能性が高いが、元和八年については、他の記録類にはその事実が確認できない。

※'17.3.7 追記。
一部、途中に改行を挿入しました。

本保氏は

 工事はごく短期間で完成し、家康が御茶屋御殿殿を利用した

とする立場で、

簗瀬氏は

 工事には1年弱を要し、家康はほとんどこの街道を通ることはなく、確実なところでは復路としてこの街道を利用し、その際御茶屋御殿を利用した

としています。


それらの根拠については引用した文章に述べられていますが、私には簗瀬氏の説が説得力があると思えます。

 

 

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※'17.3.7 追記。
「千葉御殿」があったとされる場所。現在千葉地裁などが入る都川沿いの千葉合同庁舎。

少なくとも当時は現在の「千葉御茶屋御殿跡」のある地域は千葉市ではなく、千葉とも呼ばれることもなかったでしょうから、「千葉」は当時の千葉町、そして現在は痕跡がなくなってしまった「千葉御殿」を指すものと思えます。


資料に記載された古地図では「かのや(金親町。千葉市若葉区)」「いさこ(砂。八街市上砂)」と書かれ、その間に「御殿」があります。それは現在の「千葉御茶屋御殿」ですが、そこは当時は「千葉」ではなかったのです。



簗瀬氏の説では土気(とけ。現在の千葉市緑区土気町)の御殿についても触れられていますが、それについては次のサイトに記述があります。


徳川家康の休憩のために造営された「土気の茶亭」






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