『「サロメ」の変容』 [本]
先日「サロメ」を取り上げましたが、その後ちょうど知りたい事が載っていそうな本が見つかったので取り寄せてみました。
「サロメ」が書かれたのはワイルドがパリのホテルに滞在していた時で、ホテルの便箋にフランス語で書きつけたのが最も初期のものだそうです。
本は二つの出版社から出されたそうですが、実質自費出版であったようです。
英語への翻訳は当初知り合ったばかりの学生(気に入ったらしい。ちょっとあやしい)に任せたそうですがイマイチ気に入らなかったもののイラストを描いたビアズリーが翻訳したものは更に気に入らなかったので結局当初のものに手を入れて使ったようです。
ビアズリーについてはイラストも気に入らなかったことは先日も触れましたが、曰くあまりにも日本的だと。
当時はパリ万博の時代ですでにジャポニズムが大いに盛り上がっていた時代でしたが、ワイルドのイメージはビザンチン的なものだったそうで、ことによると自分のイメージと違うものが歓迎されたことが面白くないという思いもあったのかもしれません。
ただ、はっきりしているのはビアズリーがイラストの中にワイルドの作品と関係ないものをあれこれ書き込んだことと、ワイルドの戯画を書いていること、そしてこれが最も気に障ったと思いますがワイルドの顔を戯画化して(月の中などに)書き込んでいることが原因であったようです。
ワイルドは作品の構想をまとめる過程で
・「逆立ちで踊るサロメ像」(ルーアン大聖堂の聖ヨハネ門扉の破風の浮彫)
・「あらわれ」や「ヘロデの前で踊るサロメ像」
(ユイスマンスの小説「さかしま」の主人公が語るギュスターヴ・モローの作品)
・フランシス・ホープの部屋の、黒いタイツで七つのヴェールを着けて逆立ちのポーズをとった若い女
・フローベールの『三つの物語』の「エロディアード」
・マドリッドのプラド美術館にあるティッツィアーノの「サロメ」
などのイメージを積み重ねていたようで、これらの特にヨハネの首を盆に載せて持つイメージが強烈に染み付いたのではないかと思います。
これらの絵画は元の聖書の中の物語を描いているはずですからサロメがヨハネの首を所望したのではなくその母親である王の妃がそれを望んだわけですが、絵として定着されたそのイメージがあまりにも強烈だったのでしょう。
聖書にはサロメという人物はもう一人登場するそうですが、ヘロディアスの娘であるサロメの名が記されている七巻の『ユダヤ戦記』や『ユダヤ古代史』(一七巻五章)では最初の夫とは早く死に別れ、再婚して三人の息子をもうけているそうです。
この本にはここに挙げたような絵画も掲載されていますが、貞奴や松井須磨子、演技をつける三島由紀夫などの写真も掲載されています。
上の写真はサロメに扮するワイルドだそうです。
ビアズリーが戯画化したようなデブには見えませんが、こういう扮装をして写真を残すところは倒錯の気味があるように思えなくもありません。
こうしてみてくると義理の父の求めに応じて踊り、母の言う通りのものを望んだ少女はワイルドのイマジネーションによって最も有名なファム・ファタールの一人として創造されたと言えるかもしれません。
ワイルドの物語の中でもそれまで無垢な少女であったサロメがヨカナーンの姿を見て虜になってしまい、愛する相手を求める心を知り、相手にされないことによって自分のものだけにしてしまおうとして首を所望し、首に向かって「なぜ私の顔を見てくれなかったのか」と言ってとうとう口づけするというのはかなりエロティックなイメージです。
シリアの若い男(軍長)はサロメに恋い焦がれ、サロメが '女' に変わろうとする様子を見て自刃する。
義理の父である王もまた無垢なサロメに淫らな目を向けるが、ヨカナーンの首に口づけするのを見るに至って兵士に殺させる。
イギリスでは上演実現直前に中止させられたりしてワイルドの生前はプロの舞台で取り上げられることはなかったそうですが、それは内容がショッキングだったからではなく、神の物語を舞台に載せてはいけないという法律があったからだそうです。
上演が実現し、それを R.シュトラウスがオペラにして作品は一気に知名度が高まります。
『ドリアン・グレイの肖像』も尋常ではない物語ですが、ワイルド自身、その存在、立ち居振る舞いが話題の中心、世間の関心の的であったそうです。
今のこの時代にワイルドのような存在があったらどうでしょうか?
その行状も今では不道徳とまでは言われないでしょうし、その才能が今だったらそんな作品を生み出すのか、とても興味深いです。
でも、ビアズリーのような才能が同じように出てくるかどうかはわかりませんね。
『幸福の王子』は何か深読みする余地があるのかなあとつい想像してしまいます。
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