シーボルトとお瀧さん [本]
吉村 昭 さんの小説は以前読み終えたのですが、先日国立科学博物館でシーボルト展を見た後ミュージアムショップに立ち寄ると、書籍のコーナーに「ひどらんげあ おたくさ」という本があるのが目に入りました。
高田さんというお名前は存じあげなかったのですが、脚本家として実績のある方のようです。
先日読み終わったのですが、ずいぶん違うものだなというのが一番の印象です。
吉村さんの方はお瀧さんとシーボルトとの関わりに始まり、孫である 高 までの物語が綴られていて子の 伊禰 の物語にも大きなスペースが割かれています。
高田さんの方はシーボルトとの別れまでで、最後の方で再来日の様子が描かれています。
違いはそれだけではなく、お瀧さんが遊女になった年齢、その理由、家族構成、シーボルトとの結びつきにまつわるエピソード、などなど細かい部分でかなりの違いがあります。
史実は変えることはできないでしょうが、会話の内容や登場人物が思ったことなどは作家の想像力の産物でしょうから違いがあって当然ですが、例えば拝領の羽織が贈られるに至った経緯など、ずいぶん違った印象を受けます。
シーボルトが国外追放になって船で帰国する様子など全然違います。
が、吉村 さんの作品では描かれないエピソードが 高田 さんの作品にはあって、一番興味深いのはオオサンショウウオにまつわるものです。
二匹のオオサンショウウオが捕獲されて夫婦とされて生きたままオランダ行きの船に乗せられたのはシーボルト展での説明と符合します。
一匹は途中で共食いで食われてしまい、オランダに届いたのは一匹だけだったそうですが、60年も生きて人気を集めたというのも符合します。
読み比べると小説としては 吉村 さんの作品の方がしっかりとした小説という印象で、高田さんの作品はどちらかといえば歴史を素材にした読み物という印象です。
しかし高田さんの作品がフィクションの部分が多いとも言い切れないのです。
翻訳ソフト(長崎方言への)を使用して長崎弁を話す人にもチェックしてもらったという会話は味わいがあります。
一度読んでみるもの無駄ではありません。
昔当時大変人気のあった脚本家(Uさんとしておきます)の小説を読んでみて後悔したことがあります。
情景や心情描写がお粗末極まりなく、なるほどドラマというものは俳優が演じて完成するのだからそれらのニュアンスは俳優が作り上げるのであって、脚本というものは誤解を恐れずにいうならば半完成品なのだなと納得し、それ以来脚本家の書く小説というものは読む価値がないのだと思っていました。
向田邦子さんはやはり別格なのだなと。
しかし今回この作品を読んでみて、これならまあいいかと思えました。
吉村作品に描かれる "シーボルト事件" に関わった人物たちの断罪の様子は凄まじく、高田作品ではその点はあっさりしていて物足りない思いが残ります。
シーボルトが実際にどういう記録を残しているのか知りたくなったので、この本を買ってみました。
江戸参府の際の記録ですが、シーボルトの残したものは大変興味深いです。
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