先日取り上げました Baccarat の古いグラスが春海バカラと呼ばれるものであることはその時触れました。








箱もオリジナル(日本の)です。











 


ギヤマンという表記に後で触れます。












大阪、高麗橋の春海商店がデザインして発注したものです。









 


 


大変貴重な、オリジナルの栞も残っています。



 

 






横書きの表記が現在と同じ左から右です。


 


ちなみに「白耳義」はベルギーの漢字表記です。


「阿蘭陀焼」というのはイギリスやオランダのプリントウェア(銅版転写陶磁器)のことで、現代ではイギリスの SPODE などのような製品です。


 


 


当時は京橋に支店があったようです。


 







この製品がいつ頃作られたかを探りたいと思っているわけです。


 


 


春海商店がバカラ製品の取扱を始めたのが 1904年とされています。


 


栞をもう一度見ていただきたいのですが、「東京市」とあります。


 


これは現在の23区であるそうですが、東京都に呼び名が変わったのが 1943年。終戦の2年前です。


 


 


大雑把ですがその間に作られたものであるはずですが、オリジナルにデザインして注文するのは 1904年よりもう少し後でしょうね。


 


 


110年くらい前から 75年くらい前まで、およそ35年の間に作られたものと推測します。


 







クリスタルガラス自体の質は現代の方が良くなっていますが、カットの技術は決して劣るとは言えません。













 






この、横方向のカットはアンティークバカラにも見られますが、上下に二箇所あるものは今のところ見つかりません。


想像ですが、これは日本の樽のデザインではないかと思います。


さらに想像するなら、春海藤次郎のデザインが他のバカラ製品に使われた可能性もあるかもしれません。








金彩も非常にきれいに残っています。








どのグラスにも良く見ると気泡が残っています。








このカットをぴったり合わせるのが高度な技です。








さて「ぎやまん」という表記ですが、ダイヤモンド(ディアマン)やすりを使ったカットガラスのことで、江戸時代の終わりまでそう呼ばれていましたが、明治の初めにドイツから製法を取り入れてそれまでの和ガラスから変わった時に呼び名も「ガラス」と変わったそうです。


なのでこの栞にそういう表記が使われているのは普通にそれが使われていたからではなくて知識人層や趣味人の間ではそういう呼び名が好まれていたからと推測します。


 


 



 


日本語が左から右への横書きになったのは戦後と思われていますが、戦中(昭和17年頃)からそうしようという動きはあったそうです。


ただ、横書きがなかった日本語では作られ始めた辞書などでは原語を横書きにして日本語を90度右か左に回転させて表記していたそうで、不便だとして横書きが始まったそうですが、そういう経緯があるので当然左から右へ書いたそうです。


 


検索してみると


 1938年(昭和13年)10月頃の大阪の天王寺駅


 1938年(大正15年)12月24日(大正最後の日)の朝日新聞


の画像が見つかりましたが、表記は混在しています。


そしてはっきりと方向を統一すると宣言したのが読売新聞、昭和20年12月31日付紙面。


 


翌元旦から変更したのだそうです。


 



 


 


製造年を推測するには今のところこれ以上材料がないのですが、現在も大阪で営業している春海商店にはデザイン画が残されているそうですし、フランスのバカラ本社にも図面はあるでしょう。


 


機会があればさらに調べてみたいものです。






ちょっと横道に逸れますが、箱の横に貼られたラベルに「湯」の文字が見えますが、湯呑みでもないし、茶の湯の意味とも違うような気がします。


いろいろ調べていますと、あの「吉兆」が創業当時から夏のものとしてバカラの器を使っていたことがわかりました。


創業は 1930年。創業者は湯木貞一。


ことによると湯木さんが書いたかあるいは次の所有者が来歴の記録のために書いたのかもしれません。


推測の域を出ませんが、そうであったらすごいと思います。