以前取り上げたテーマですが、今回久しぶりに博物館に行ったので改めて取り上げてみようと思います。

船橋から東金に至る鷹狩のための街道は御成街道と呼ばれ、一部を除き今でも道路として使われています。

その途中の千葉市若葉区にある遺構が「御茶屋御殿」として知られ、鷹狩の際家康がここで休憩したいうのが一般の認識です。


ところがそのいわば通説に異をを唱えるのがここに寄稿された論文の著者 簗瀬 裕一 氏です。






「千葉いまむかし」18号

 千葉市教育委員会(千葉市立郷土博物館 市史編纂担当)

  平成一七年三月三一日発行


千葉におけるもう一つの御殿後 ─千葉御殿と千葉御茶屋御殿─


P41

このように中田町にある「御茶屋御殿跡」については、基本的な事実はかなり明らかになってきたといえるが、しかしなお、いまでは「千葉御茶屋御殿跡」と呼ばれることの多いこの遺跡の評価において、最も基本的な部分が未解決であると筆者は考えている。

(中略)

しかし、本稿で以下述べるように、右でふれた『実紀』等にみえる「千葉」は、中田町にある御茶屋御殿ではなく、現在の千葉市の中心部、かつての旧千葉町を意味するか、もしくはそのなかにあった「千葉御殿」を示すものであり、したがって「千葉御殿」と「千葉御茶屋御殿」とはまったく別のものなのである。

(中略)

P43

本稿で参考にした史料は、『習志野市史』第二巻史料編(I)(第四章東金御成街道)に採録されたものによるところが大きい。


1 御殿と御茶屋について

(中略)

その定義は、「御殿とは将軍自身(大御所・世子を含む)が旅行や外出の際、宿泊するために城内以外に設けた施設であって小規模なものは御茶屋とよばれる」・「宿泊用に対し小規模なものを御茶屋という」とする中島義一氏の説明が簡潔である。


P45

3 千葉御殿について

 千葉御殿については、徳川光圀の『甲寅紀行』にみえる記述がいまのところその位置を知る手がかりとなる唯一に近いものである。

延宝二年(一六七四)四月二十七日に水戸光圀は千葉に入り、「古城の山根に水あり。「東照宮御茶の水」と、云ひ伝う。右の方に森あり。「東照宮御旅館の跡なり」と云ふ。」という文章を残している。ここでは、今でも残っている「お茶の水」については伝承扱いであるが、家康の「御旅館の跡」の森については、伝承という扱いではなかったことに注意すべきである。古城(猪鼻城跡のこと)の右手という位置関係から、千葉御殿伝承地である千葉地方裁判所の敷地を「東照宮御旅館の跡」に比定するのに矛盾はない

(中略)


4 東金へのルート

(中略)

P48

 この慶長十九年の東金鷹狩りで、家康が東金御成街道を通らなかったのは、街道が完成していたにもかかわらず通らなかったのか、それともまだ未完成だったのか確たる証拠はないが、近隣の農民等を大量動員して作り上げ、完成していたにもかかわらず、そこを通らなかったということであれば、鷹狩りの名目で各地に出向き、よく民情を視察したといわれる家康の行動としてはふさわしくないのではないかと思われる。とすれば、慶長十九年正月の段階では完成していなかったと考えるべきであろう。右に見た記録類では、家康の東金鷹狩りの意向が示されてから、鷹狩りの実施まで長く見ても一ヶ月ほどであり、実際の工事にかかれる態勢を整えるまでの時間を考慮すれば、まさに「三日三晩」の突貫工事によって街道を完成させなければならないが、約三十七kmもある道路をそのような短期間で完成するのは不可能であったと考えられるのである。この工事は、現代の高度な土木技術を機械力をもってすれば可能かもしれないが、それでも簡単なものではないはずであり、ましてや江戸初期においては無理であったと考えられるのである。

 したがって、慶長十年(管理者注。これは慶長十九年の誤りと思われます)の東金鷹狩りにおいては東金御成街道は完成しておらず、家康は千葉から土気街道(これも御成街道と呼ばれた)を経て、その先はおそらく大網を通って東金に入ったものであろう。そして、東金御成街道を初めて家康が通ったのを確認できるのは、翌元和元年である。『実紀』等によれば、家康は往路は、船橋─千葉─東金、復路は東金─船橋のルートをとっている。往路の千葉─東金については、土気を経由したのか、旧東金街道を通り直接東金に入ったかは不明であるが、千葉を経由しているので、この時は東金御成街道を通っていないと考えられる。復路については千葉を経由した形跡がなく、金親村で神尾守世(久宗)が家康に御膳を献じており(『断家譜』巻十)、金親町の金光院で休息したともされるので、この時初めて東金御成街道を通り、千葉御茶屋御殿も使われたものと考えられる。『断家譜』巻十によれば、神尾氏は元和七年と八年にも将軍に御膳を献じているので、この二回についても東金御成街道を通った可能性が高いが、元和八年については、他の記録類にはその事実が確認できない。

 土気経由のルートについては、寛永元年正月に小栗又兵衛信友が「東金離館」とともに「土気の茶亭」の造営のために派遣され、同年十二月に二カ所とも竣工している。このような時期に、「土気の茶亭」の造営が行われたことは、東金御成街道以外にも東金へのルートを確保しておくための処置であったと考えられよう。

 以上のように、東金への鷹狩りにおいては、東金御成街道が唯一のものではなく、土気経由のルートも当初から使われており、少なくとも二つのルートが維持・併用されていたことが確認できるのである。


P58

6 まとめ

 慶長十九年や元和元年の『徳川実紀』の記事にみえる「千葉」については、従来考えられてきたように、千葉御茶屋御殿ではなく、文字通り当時の千葉の町、またはそこにあった千葉御殿を示しているとみるべきである。千葉地方裁判所の敷地に相当する「御殿」伝承地についても、実際の遺構として考えてよいと思う。

(中略)

 そして、慶長十九年の家康の東金鷹狩りにおいては、東金御成街道はまだ完成していなかったために使われることはなく、千葉から土気を経由して東金に至っており、御成街道と千葉御茶屋御殿が使われたのは、翌元和元年であったのである。したがって、東金御成街道については、家康の東金鷹狩りに間に合わせるべく、「三日三晩で造られた」という良く知られている話は、事実とはいえないものである。(後略)






古地図には現在の「御茶屋御殿」と思われるものが記載されています。





黒丸で示された「御殿」の右下に「いさこ」とあるのは現在の八街市砂(いさご)です。


その左の「御殿」が現在の千葉地方裁判所の位置にあったと考えられる「千葉御殿」であろうということです。

その左にある「さん川」は現在の千葉市中央区「寒川」であると思われます。







別の時代の地図では「カナヤ」(千葉市若葉区金親)と「イサコ」の間には「古城」と記載されています。

これは既に遺構になってしまっていたのではないかと思われます。

「千葉御殿」であったと思われるものも既に建物はなかったようです。







さて簗瀬氏が触れていないポイントを補うように考えてみるのですが、そもそも今の千葉市は最初から同じ範囲であったのではなく合併を何度か行った結果今の姿になっています。


合併の様子はこのリーフレットに簡潔にまとめられています。


その他次の資料も参照しています。



千葉県の歴史 別編 地誌2  (地域誌)」

 県史シリーズ27    H11. 3. 25

P90, 91, 93


千葉縣千葉郡誌」 1989.5.31

P80, 81 地図


千葉市史 近世近代編」 S49. 3. 31

P166, 167



AD 645(大化元年)下総国千葉郡

AD 717(養老元年)頃 

    千葉郡内に千葉山家池田三枝