先日ワイルドの「サロメ」を取り上げましたが、井村さんの『「サロメ」の変容』を読んでいましたらいろいろ興味深い内容に出会いました。


 


 



 


ここで大いに評価されているのは日夏耿之介(ひなつ こうのすけ)の翻訳になる『院曲サロメ(撒羅米)』です。


 


三島由紀夫が実現した舞台に使用したのもこの翻訳でした。








三島由紀夫は最初の上演(二回目はその十一年後、自決の数ヶ月後でした)にこぎつけるまでに二十年かけているそうですが、次のように評価していたとあります。


 


P.219


全体としてその訳語は三島由紀夫も言うように「瑰麗にして難解である」。しかし「口に出して読んでみると、力があり、リズムがあって、直に心に触れて来る名訳である」。この日夏訳を三島が選んだ一つの必然は、オリエントの品高い姫君の世界は、日夏訳でしか出せないという確信からであった。




さすがだなと思う箇所がありますのでそれを取り上げた箇所を一部引用します。

ルビは入力できないので()内に表示します。



P.221


 最後の「……そなたの脣(くち)に接吻(くちつ)けさせておくれのサロメの台詞であるが、微妙な表現の違いがいく通りもある。”I shall kiss thy mouth Jokanaan”(「約翰(ヨハネ)よ、わたしはそなたの脣(くち)に接吻(くちつ)けたいのぢや」)、”I will kiss thy mouth, Jokanaan”(「約翰(ヨハネ)よ、そなたの脣(くち)に接吻(くちつ)けがしたいのぢや」)、”Let me kiss thy mouth, Jokanaan”(「そなたの脣(くち)に接吻(くちつ)けさせておくれ」)。訳筆は原文のその微妙な変化を逃さず移しているが、この一行は「お前の唇にキスがしたい」といった現代語訳では、あるいは下世話なものに化してしまう恐れがある。この訳調の言葉使いからは、イスラエル王女の凜とした気高さや妖婉さ、そしてつき離すような冷たさまでが漂ってくる。


 ヨハネが死ぬまでは “kiss” を「口け」と訳し、首になってそれを抱くと「口け」と濁らせ、サロメが精神的に処女の状態からそれを失うまでを、一語の発音の違いで区別している神経の細かい配り方を日夏訳はみせている。ヨハネの首に口づけを果し、次の瞬間、死の奈落につき落される幕切れのサロメ最後の言葉「……そちの脣(くち)に、約翰(ヨハネ)よ、このわたしが接吻(くちづ)けをしたまでぢや」(”Jokanaan, I have kissed thy mouth”)にも「ヨハネよ、わたしはお前にキスをした」といった直截な現代語訳では出ない、相手との距離感や虚無感が余韻として響いている。




'18.4.18 追記。

三島は上演にあたり日夏訳の「ヨハネ」をより馴染みのある「ヨカナーン」、「ヘロデア」を「エロディアス」としようとしたが、セリフにすると日夏の訳文を乱すと感じられたので「ヨハネ」「ヘロディア」に戻した、とプログラムに書いているそうです。

(P.239 三島由紀夫の『サロメ』演出)






日夏の翻訳は昭和三年刊行の「近代劇全集」(第四十一巻)に収められていますが、刊行後も日夏は訳文に手を入れ続け、昭和二十七年に角川文庫に収録されたものをもって決定訳としたそうです。










ヤフオクで手に入ることがありますが、狙った巻が出品されているかどうかは探してみないとわかりませんね。








この本もかなり古いので読むとバラバラになりそうです。









日夏の訳は新本でも手に入りますのでそれを読めば良いのですが、井村さんの本によれば「近代劇全集」の解説がとても優れていたのに角川文庫にはそれは収められなかったのだそうです。









 


「解題」は確かに興味深いです。


例えば、なぜワイルドはフランス語で書いたか。


 


 その断章をば巴里某處でフランス文人等の前で讀み上げて讃歎せられ、完成の上は再び見せようと考へた事實に基く。


 


聖書に登場するエピソードとの違い(首を欲しがるのが母親でなくサロメになった)についても考察されています。


 


 


まあここまで探して調べようという私は余程の暇人ですね。