オペラはやっぱり映像がなければと最近強く思うので DVD(Blu-ray)を視ることが増えています。
今回はかつて高音質 LP で親しんだ「アイーダ」です。
最も人気のあるオペラの一つですが、上演回数では一番らしいです。
こちらは指揮はシャイーで、オケと合唱・バレエはミラノ・スカラ座。
スカラ座はイタリア初演の場所です。
目を奪われたのは20年ぶりに演出を手掛けたというフランコ・ゼッフィレッリの舞台と衣装です。
初演に忠実なグランド・オペラです。
CD では味わえないバレエの場面も特に素晴らしかったです。
2006年のこの上演ではラダメスを歌ったアラーニャに対して2回目に桟敷席から辛辣な野次が飛んでアラーニャが怒って降りてしまい、急遽代役がつとめただけでなくそれ以降アラーニャはスカラ座に出ることがなくなったという話題もあります。
つまり、アラーニャが歌う姿を見られるのはこのディスクだけということです。
ちょっと残念なのはアイーダとアムネリスは台本の設定では20歳なのですが、両者とも年齢は離れてしまっているのは問題ではないとしてもとても可愛いと歌われるアイーダがどうも私にはそうは見えないことで、そのため感情移入がイマイチだった事です。
アラーニャの歌唱はちっとも悪いとは思えないのですが、二日目は調子を落としていたのでしょうか?
初めてこの曲を聴いたのはハイライトを高音質でプレスしたカラヤン二度目の録音でした。
最初に CD 化された時にはすぐ買ったのですが、音質が良くなくてがっかりしたことをよく覚えています。
今回聴いた CD はその後発売されたリマスター版ですが、最初のより良いものの、あのレコードの音には及びません。
でもこの録音には大きな話題が付帯していまして、この曲だけで使われる “アイーダトランペット” が YANAHA 製であるということです。
ウィーン・フィルは基本的には楽器は楽団のものを使うそうですが、それまで使っていたアイーダトランペットは音程も良くなくて、どうやら本番で奏者が音を外すということがあったらしく、カラヤンはこの録音とそれに続くザルツブルク音楽祭でも普通のトランペットを使うつもりであったようです。
しかし楽団側は本来の楽器でやりたいと考え、日本の YAMAHA に打診しました。
もともと日本でも東京オリンピックなどを契機に(アイーダトランペットではありませんが、ファンファーレトランペットという、旗などを吊るすことができるトランペット)研究が進んでいたそうで、ヘッケルの製品の素材を徹底的に研究してその音の秘密を解明して試作品を送ったところ正式にアイーダトランペット12本の注文が来た、という経緯があります。
そしてリハーサルの時、カラヤンには事前に知らせずに注文した楽器を使ったそうですが、楽器の出番が終わったあとカラヤンは上機嫌で、あれはどこの楽器だと尋ねヤマハ製と知ると大層満足げであったそうです。
LP の解説に印刷されているのが多分それですが、本来はピストンなどのない長い管とベルだけの単純な構造です。
ヴェルディが指定したのは変イ調(in A♭)とロ調(in H)の楽器3本づつですが、ヴェルディの譜面では普通のトランペットの第一ピストン(またはロータリー。押すと一音下がる)は必要です。
YAMAHA が作ったのはハ調(in C)のロータリートランペットを長く伸ばしたような形の楽器(全長約1.2m)でした。
もちろんウィーン・フィルと打ち合わせのうえでそうしたはずです。
譜面では舞台奥左右に3本づつのアイーダトランペット(楽譜の指定では「エジプトトランペット」)が立つ指定ですが、今回視聴したディスクでは左上と下、右上と下の四ヶ所に各4本計16本配置していました。
ヴェルディは博物館に保存されている楽器なども調査したうえで曲を作ったようですが、ヴェルディ没後にツタンカーメンの墓から発見された二本のトランペットは単純な構造で長さは 50cmくらいであったとのことです。
当時は現在のような音律も音階もなかったはずですが、長さから考えると YAMAHA が作った in C の楽器より1オクターブと少し高い楽器であったことになります。
計算しないとわかりませんが、変ロ調(in B♭)か イ調(in A) ニ調(in D)のピッコロトランペットくらいの楽器ではないかと思います。
こちらはスコアのその箇所ですが、凱旋行進曲の最初は in A♭ の楽器で奏され、次に in H の楽器で奏されます。
切り替わる箇所で一音半高く転調するわけです。
金管楽器を吹いたことがある方はお分かりだと思いますが、この楽譜なら一番ピストンだけあれば演奏できます。
こちらは実音で書かれた楽譜です。
こちらは LP です。
今回 CD をフルスコアを見ながら聴きました。
楽器編成はこの通りです。
さてこの曲はスエズ運河開通を祝ってエジプトのカイロに建設されたオペラ劇場の杮落としのために作曲されたと理解されている向きもあるようですが、実際は依頼はあったものの期限までが短すぎて、また一説によると短い曲をと依頼されたがそういう機会音楽は書かないとして断っています。
しかし別の友人からも依頼されたもののそれも断ったが、その友人はどうしてもヴェルディとの思いからオペラの概要を書き送ったところヴェルディはそれを気に入って作曲に取り掛かったということであるようです。
劇場の杮落としにはヴェルディの別の曲が使われ、完成後改めて新作の披露が行われ、その後ミラノ・スカラ座でイタリア初演が行われたとのことです。