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読み終わった宮台さんの共著 [本]

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ずっと雨でした。

お供えの花を買ってきました。

いつもは庭の花で間に合わせているのですがたまにはいいでしょう。

菊が強く香ります。



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一度取り上げた本ですが、元々あの事件がどうして起こったのか、宮台さんがどういうことを言う人なのかを知ろうと思ったのが手に取った理由でした。


永田さんと かがり さんがタレントの不祥事を受けたレコード会社の対応について意を唱えているのが第一章と第二章なのですが、それを受けて第三章で宮台さんが論を述べるという構成になっています。


第二章 歴史と証言から振り返る「自粛」 かがりはるき
第二節 事務所、ミュージシャン、レコード会社それぞれの証言
(レコード会社元幹部・代沢五郎の証言)
P124
 しかし、そうした厳しい対応が求められているとはいえ、罪を犯したアーティストの過去の作品群にまで大鉈がふるわれるのは「やり過ぎ」にも思えます。その違和感を口にすると、代沢さんは「作品」と「アーティスト」に関する持論にそってこのように答えました。
「それは今の音楽業界がアーティストを売る力学で動いているからです。かつては、いい『作品』に対してプロモーションをかけるものでした。しかし80年代初頭ぐらいから、作品ではなく『アーティスト』のプロモーションをする戦略に移行しました。アーティスト本人に価値がある方が、利益が最大化されるからです。だから曲ではなくアーティストを売る。するとシングルだけではなくアルバムも売れる。グッズも売れる。客単価が上がります。
 ただ、このロジックを意識しているユーザーはほとんどいないでしょう。レコード会社側でさえ、これが自分たちの都合で作ったシステムだと理解している人間は少ないかもしれない。今のユーザーの多くは、曲ではなくアーティストを消費しているんです。『アーティスト自体が作品』というシステムを音楽業界が作り、ユーザーも無意識に受け入れているのが今の実態です。だとすれば、『作品に罪はない』というのはどの口が言うのかということになりますよね(笑)。例えば以前の佐村河内守さんの件なんて、この構造の最たるものです。作品に罪がないのなら、ゴーストライターがいようがいまいが、本人が障害者であろうがなかろうが、どっちでもいいはずだけど、佐村河内さんの作品が市場から消えても誰も怒らないでしょう」
(中略)
 ところで、レコード会社にとっての主な取引先・顧客といえば、小売店、広告代理店、そして我々消費者でしょう。しかし、消費者からレコード会社に対して「なんでこんな犯罪者の曲をリリースしているのだ」といった類の苦情が寄せられたことがあるかといえば、少なくとも代沢さんの知る限りでは「記憶にない」そうです。ならば、レコード会社は何を恐れているのでしょう。
「他のアーティストへの影響は怖いですよね。メディアや広告代理店に迷惑をかけて、もし『あそこの会社はコンプライアンス的にNGだ』となったら、会社丸ごと出入り禁止、みたいなことも可能性としてはあり得るんですよ」
 では、我々の署名活動を、代沢さんはどのように捉えているのでしょうか。
「署名に関しては、自分の名前を出して闘っている部分に対しては敬意があります」と前置きしつつも、「賛同はできません。まず、署名活動の中で謳われている『安易な自粛』という言葉がひっかかります。レコード会社も『”安”らかに、”易”々とやっている』訳じゃない。血が流れているんです」と厳しく強い口調になりました。血が流れている、とはどういう意味でしょう。
「CDの出荷停止や、ましてや回収なんていうのは、会社にとって本当に大打撃なんですよ。安易なんてことはあり得ない、大きな痛みを伴うことを覚悟した苦渋の決断なんです。私が働いていたレコード会社である著名アーティストが逮捕された時には、回収や売り上げ低下の責任をとって数人の社員が辞めざるを得ない事態にまでなりました。「ゴチャゴチャ言われる前に回収しとくか』みたいなノリではないですよ。少なくとも」
 レコード会社も痛みを感じながら自粛をしているのならば、そうした自粛そのもののあり方を変える訳にはいかないのでしょうか。私たちがソニー・ミュージックレーベルズへ提出した6万4606人の反対署名は、こうした慣習を見直すきっかけにできないのでしょうか。
「恐らくレコード会社の人たちも、『こんなに多くの人が反対するのか』という感覚はあったのではないかと推測します。しかし、この時代にレコード会社が相対せざるを得ないのは、『血に飢えた正義のガーディアン(守護者)』たちです。それに対抗するには6万はあまりに少ないのではないかとも思います。彼らは表に出てこないから見えない。数も分からない。何をするかも分からない。それでいて口コミという、今やTVなんかをしのぐ影響力を持つメディアを動かしている要素でもある。また、水に落ちた犬は叩くけど、同時に薄っぺらい感動ネタにも簡単に反応してくれて『応援ソング』を買ってくれる大事な太客でもある。本当に始末が悪いんですよ」
(中略)
「魔女狩りが自粛に一役買っているのは間違いないと思います。これに皆さんが声を上げてくれたことはありがたいと思いますが、そのメッセージが烏合の衆に響くかというと疑問です。
一方、レコード会社に訴えても意味がないと思います。なぜなら彼らは、職務を忠実に全うしようとしているだけですから。『誰も望まない自粛。誰も得をしないじゃないか』とおっしゃいますが、『短期的にはそう見えるが、中長期でいえばそっちの方が儲かるからやってんだよ!』ってことなんですよ。痛みは伴うけど、倫理を守った方が結局は儲かる。公害を出してから補償するより、公害を出さないようにコストをかけた方が結局安くつく。企業倫理ってものの本質はそれですから。倫理規範の導入が利益の最大化に繋がることにレコード会社もようやく気づいたってことじゃないでしょうか」
◆◆ ここでは永田さんや かがり さんの主張に対して、もとレコード会社にいらした方のがレコード会社の実情というものを述べられています。
決して「安易に」出荷停止や配信停止をしているわけではないのだということです。
次が宮台さんの論ですが、ここで述べられている「双剣論」がとても興味深いです。
第三章 アートこそが社会の基本だ 宮台真司
第一節 快不快は公共性を持たない
P142
 西ローマの「双剣論」
(中略)
 ローマ帝国末期。この頃は西ローマ帝国と東ローマ帝国に東西分裂していました。そして法と道徳の分離が確立されたのは西ローマ帝国(395〜476年)でのことです。東ローマ帝国(395〜1453年)ではそれはなかった。西ローマ帝国特有の現象だったのです。
 西ローマ帝国では、宗教学で言う「双剣論」、つまり世俗の権力は王に、超越の権力は教皇にという考え方が根付いていました。教皇が形式的な儀式としての戴冠権を持っていて、戴冠されたものが王様として世俗の権力をそれぞれの領域内で行使したということです。
 だから法の領域と宗教の領域は互いに自立しています。法に従う従わないという世俗の営みの外形と、心すなわち身体の内側を、区別するのです。これが双剣論のベースです。
 双剣論は西ローマ帝国にだけありました。西ローマ帝国は1500年ほど前に滅びました。他方、東ローマ帝国は全く異なっています。東ローマ帝国においては世俗の権力と宗教の権力が重なっていました。東ローマ皇帝は、世俗的にも超越的にも最高権力者だったのです。
 このことについて面白い話があります。僕の師匠である社会学者の小室直樹は冷戦当時、西側と東側の対立は、イデオロギー対立に見えて、それは文化的な表現型の話に過ぎず、本質は「文化的な遺伝子型が西ローマ型か東ローマ型かということだ」と見抜きました。
 良からぬ思いを抱く者がいるとします。西側では「思うだけなら構わない」「そう思っている証拠がない」とされますが、東側では「あいつは良からぬ思いを抱いている」との密告が奨励され処刑されます。世俗の権力と超越の権力が一致している東ローマ帝国ならでは、です。
 そこには「身体と心の分離」「外面と内面の分離」がありません。行為が法に従わなければならないように、心も法に従うべきだ、との理屈が通ってしまう。そのため東ローマ帝国の文化的影響下にあった東側では、特定のイデオロギーを押し付けることが平気で行われたのです。
 東ドイツの秘密警察「シュタージ」は、市民の思想を厳しく監視することで有名でしたが、こうした東側の秘密警察を中心とした特定イデオロギーの押し付けは、東ローマ帝国の文化的遺伝子の表現型だ、というのが小室直樹の主張でした。学問の見本となる慧眼です。
 逆に言うと、先進国と呼ばれる西側における「思想・信仰・表現」の自由は、普遍的真理と言えるものではなく、西ローマ帝国的な文化的遺伝子による文化的産物に過ぎません。「思想・信仰・表現」の自由も、歴史的な偶然の果てに得られた文化的な原則なのです。
第三節 好きなものを好きと言おう
P183
 ネット炎上は神経症的
 ネット炎上やネトウヨの営みは、フロムが喝破したワイマール没落中流と同じくダメ意識から逃げたい人々による埋め合わせです。不安に駆られると不安の源とは無関心な反復で埋めようとするというのがフロイトの神経症図式。同じ図式で政治的支持の背景を分析できるのです。
 人は孤立すると不安ゆえに疑心暗鬼化するゲノム的性質があります。この性質ゆえに仲間集団を作る人々だけが生存上合理的だから生き残った。なぜなら仲間集団を失って不安になると言葉の自動機械・法の奴隷・損得マシン化の神経症的傾向が顕在化してテイをなさないからです。
 テイをなさない人々を「病気になって人間モドキという虫にになった」と見れば腹も立ちません。人がカブトムシに腹を立てないのと同じです。だから僕はラジオ等で「炎上上等」の構えで発言します。ネット炎上やネトウヨに怯える人の気が知れません。



ずっと読んできて、これだなと思いました。

師匠と呼ぶ小室直樹さんは極右なのだそうですが、この文章を読む限りでは宮台さんがそうだという印象はありません。

しかし「炎上上等」と明言されていますし、引用しなかった部分などで述べられている主張などからは一部の人から強く反発をと受けそうだという印象を持ちます。


あの事件の犯人の真意を知る術はありませんが、この本で述べられているような主張やあるいは他の場で述べられていることの何かが犯人に刺さったのかもしれないと思います。


仮にそうであったとしても、論戦を挑むでもなく相手の命を奪ってしまおうという行動、挙句は自ら命を絶ってしまって弁明の機会さえなくしてしまうというのはみが手という他ないのかなと思います。



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