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新たな光が当たるか:御成街道 [地域]

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何度か触れたことのある「御成街道」ですが、最近今まで埋もれていたところが切り開かれて見えるようになった部分があります。

 

一枚めの画像は千葉市若葉区の区間に立てられているものです。

 

 

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二枚めは同じく若葉区の「御茶屋御殿跡」です。




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そしてこちらは千葉市と八街市の境で、この左カーブの頂点がちょうど境界です。

現在はこのように

 下り坂 → 左カーブ → 上り坂

となっているのですが、元々の御成街道はこれをまっすぐ突き抜けていたのだなと思っていました。




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これは以前撮った同じ場所ですが、藪になっていて足を踏み入れることができません。

 
 
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八街市に入った位置から八街方面を望みます。

 

 
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ここはこの近くの Fさんの所有地なのですが、現在はこのように切り開かれて見通しが良くなっています。




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Fさんの許可を得て入っています。




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入ってみるとここは直進ではなく、やや左カーブの坂道になっています。




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結構急です。

駕籠を含む一行が上るとするとキツかったのではないかと思います。




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上り切ると目の前に Fさんの畑が広がります。

この畑も道であったのでしょう。




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戻ります。




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台風で倒れた木も伐採されています。




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上った坂です。




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ここは私有地であるわけですが、これを抜けた部分に貴重な痕跡が残っていることは以前取り上げました。

https://music-1000.blog.ss-blog.jp/2017-03-06-1

 

その部分は私有地でありながら八街市指定の史跡になっているのですが、今回切り開かれたこの部分はそうではありません。

しかし Fさんのお話では今回八街市がこの整備を行ったのだそうです。

すると市としてはこの部分も同じように史跡に指定する考えがあるのかもしれません。

 

実際のところこの一帯(八街市西部)は地図をご覧いただくとはっきりわかるのですが、長方形に区画されています。

これは明治維新この一帯が「小間子牧」と呼ばれていた時代に計画的な開墾が行われたために元の姿が失われてしまっった結果です。

 

 

 

(前略)

前山清一郎は、文政6(1823)年に佐賀県で生まれ、旧佐賀藩の藩校弘道館や江戸の昌平坂学問所で学問を積み、戊辰戦争の際には大総督府応援参謀として活躍しました。その後、佐賀藩大参事や兵部省(ひょうぶしょう)出仕として官職も務め、明治7(1874)年に起きた佐賀の乱でも、政府軍の勝利に貢献し、のちに元佐賀藩主の鍋島家が八街南部の小間子牧の土地を買い入れたことを機に、前山も現在の山田台に居を構え、鍋島家による小間子牧の開墾事業に携わりました。

(後略)

https://mykoho.jp/article/千葉県八街市/広報やちまた-平成30年2月1日号/八街歴史探訪(42)明治時代の八街⑤23/)

 

 

千葉県印旛郡八街村小間子地区 (現千葉県八街市)( 以後、当該地区) は、明治になり鍋島家に仕えた旧佐賀藩士等が、窮民授産を進めた土地である。この窮民授産は、明治新政府が日本の近代化のために行った最も基本的な土地政策である。 

(中略)

当該地区は、旧佐賀藩士等が中心になって開墾会社永沢社 ( 以後、永沢社 ) を設立して、独自の入植者の勧誘方法等を確立して入植者達を引きつけ 、開墾事業(以後、鍋島開墾)を行ったものである。

 

(後略)

公益社団法人日本都市計画学会 都市計画論文集 Vol.52 No.1 2017年 4月 

地目・等級からみた開墾会社永沢社の入植地整備の特質 
—『明治三十二年 土地 帳 印旛郡八街村八街』を資料として—


 

いずれここを含む御成街道の痕跡が市の史跡として広くPRされることになるのかもしれませんね。

 
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