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演奏とは自分をさらけ出す事 [レッスン]

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先日3日の読売新聞の千葉版にピアニストの藤井隆史さんが紹介されていました。
...と書きましたが、藤井さんのお名前を目にするのは初めてです。
それでもこの記事で取り上げるのは記事の内容に注目すべき言葉があったからです。
東京芸大の講師をなさっているそうですが、その言葉に
 「演奏は自分の全部をさらけ出すから、本来はすごく恥ずかしいこと」
とあります。

これにははたと膝を打ちました。
普段何となく感じていながらうまい言葉が浮かばなかったこの感じが的確な表現で述べられているのです。
そうなのです。
レッスンは本番のつもりでとは頭では承知しているのですが、なかなかできません。
本番は練習のつもりでとは言われていますが、いざ本番になると目の前の光景と雰囲気に正面から向き合うのです。
いろいろ検討して工夫したフレージングやアーティキュレーションなどの表現、それは本番直前のリハーサルであっても本番そのものではありませんから「これ一回」の本番に発現する筈の "本番モード" の高みにはどうしても登れないのです。

自分の本心というのはなかなかさらけ出す事はできません。
それはもうどなたでも同感していただけるでしょう。
今何を考えているのか、本当はどう思っているのか、そうした事を本番の舞台ではさらけ出さなければならないのです。

レストランならともかく電車の中や普通ものを食べる場所でない人目のあるところでものを食べるのは本来恥ずかしい事なのです。お化粧もそうですね。
そもそも食事というのは人間の欲の一つである食欲をむき出しにする行為です。

文庫本がファッションになったと言われたのはずいぶん前の事で、カバーがカラフルなイラストや写真で飾られるようになった頃でした。そのうち素っ気ない岩波文庫も飾り気はないながら紙のカバーに変わりました。本屋さんでは紙のカバーをかけてもらわずにそうした表紙をむき出しで持つのがファッショナブルだと思われたのですね。
私は必ずカバーをかけてもらいますし、ネットで購入した場合などかけてもらえないときは適当な紙を用意して自分でカバーをかけます。
それは手あかなどの汚れ防止でもありますが、今何を読んでいるかを見られたくないという思いがあるからです。
もちろん見られて困るようなものを読んでいる訳ではありません。頭の中を盗み見られるようなものだと感じられるのです。
また読む事に集中している時というのは言わば無防備な状態です。そういう時に実害がある訳ではないのですが自分の知らないうちに盗み見られる事に非常な抵抗を感じるのです。

なので本番のステージですべてをさらけ出そうというのは「恥ずかしい」行為なのです。
だから本番直前であってもそのモードには入れないのです。


ああだからそこで致命的なミスがあれば二重に恥ずかしいという訳です。
...と言いながら本番では結構居直っていたりします。
失敗しても仕事が来なくなる訳ではない、この曲は誰も知らない(先生は知っていますが)から、間違っても間違いかどうかは分からない。

本番ではそのような思いがぐるぐる回っています。

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